第一章 花見川団地の不穏な影
第二章 悪霊の影
第三章 幽霊との接触
第四章 消えた女子高生の謎
第五章 幽霊との対話
第六章 犯人の特定
第七章 探偵の介入
第八章 魂の解放、そして新たな始まり

~三姉弟と探偵が挑む、封印された記憶~

 千葉県千葉市花見川区横戸町。花見川がゆるやかに流れ、赤い弁天橋がかかるこの町に、ごく平凡な一家が暮らしていた。
父は腕の良い内装職人、母は大企業の経理をこなすキャリアウーマン。そして、三人の個性豊かな子供たち。長女の芽依は2010年生まれのしっかり者で、家族思いの優しい女の子。
長男の琥右は2012年生まれ、少々おっちょこちょいだが、運動神経は抜群。末っ子の次男、碧央は2017年生まれの生意気盛りで、大人顔負けの鋭い観察力を持っていた。

第一章 花見川団地の不穏な影

 千葉県千葉市花見川区横戸町は、長閑な田園風景と新興住宅地が混在する、どこにでもあるような町だった。しかし、その奥底には、古くからの土地の記憶と、現代社会の歪みが複雑に絡み合っていた。私たち家族が暮らす家は、花見川が緩やかに蛇行するほとりに建つ、築年数の浅い一軒家だ。リビングの窓からは、四季折々の表情を見せる花見川が望め、特に春には、川沿いに植えられた桜並木が淡い桃色に染まり、風が吹けば花びらが雪のように舞い散る、絵画のような光景が広がる。夏には青々とした葦が風にそよぎ、秋には豊かな実りを思わせる稲穂が黄金色に輝く。そして、その桜並木の向こうには、朱色の弁天橋が優美な弧を描いて架かっていた。橋を渡れば、広々とした鷹の台弁天公園。その向こうには、京成本線大和田駅へと続く線路が、町の喧騒を運んでくる。休日の午後は、家族揃ってそこで過ごすのが常だった。広々とした芝生で、長男の琥右が自慢の運動神経を活かし、泥だらけになりながらも元気に駆け回り、長女の芽依は、文庫本を片手に木陰で読書に耽ったり、時には末っ子の碧央とベンチに並んで、咲き誇る季節の花々をスケッチしたり。牧歌的な風景が、私たち家族の平穏な日常の基盤にあった。

 父は地元で腕の良い内装職人として、地道ながらも確かな信頼を築き、近隣の古い家屋のリフォームから、新築のマンションの施工まで幅広く手がけていた。その手から生み出される仕事はいつも丁寧で、地域の人々から厚い人望を集めている。母は大企業の経理をこなすキャリアウーマンとして、朝早くから夜遅くまで働く多忙な日々を送っているが、それでも休日は家族との時間を大切にしてくれていた。家族の生活は、それぞれの役割が有機的に絡み合い、まるで丈夫な布のように織り上げられていた。

 ある日の週末も、いつものように公園で遊び疲れた帰り道のことだった。陽は傾き、夕焼けが空を茜色に染め上げていた。遠くから京成本線大和田駅へ向かう電車の音が、のどかな夕暮れに溶け込んでいく。琥右が、公園の芝生で転がった拍子に泥だらけになったジャージを気にすることもなく、「パンケーキ食べたい!」と元気いっぱいにねだった。その声は、まだどこか幼く、無邪気そのものだった。家族は顔を見合わせ、笑いながら国道16号線沿いにあるお気に入りのパンケーキ店「cafe a tempo」へと向かった。

 「cafe a tempo」は、木材を基調とした温かみのある内装で、焼きたての甘い香りが店内に満ちていた。ふかふかのパンケーキにたっぷりの生クリームとメープルシロップをかけた琥右は、口の周りをクリームだらけにして幸せそうに頬張っていた。その隣で碧央は、パンケーキに飾られたフレッシュなフルーツの配置をじっと観察しながら、おませな口調で「このイチゴ、もう少し右の方がバランスがいいな。あと、ブルーベリーはもっと散らした方が芸術的だね」などと批評していた。芽依はそんな弟たちの様子を微笑ましく見守りながら、温かいアールグレイの紅茶をゆっくりと啜っていた。窓の外には、夕暮れの国道を走る車のテールランプが、まるで赤い光の帯のように流れていく。日常の喧騒から切り離された、穏やかで満ち足りた時間。

 そんな穏やかな時間の中、母がふと、窓の外に広がる町の景色に目を向けながら、独り言のように口を開いた。その視線の先には、地平線に薄く影を落とす巨大なコンクリートの塊、花見川団地があった。

 「そういえば、花見川団地って、最近変な噂があるみたいね」

 母の言葉に、父がフォークを止めて顔を上げた。「ああ、あの大きな団地か。何かあったのか?」

 花見川団地は、横戸町から花見川を挟んで少し離れた場所に位置し、遠くからでもその巨大な姿を望むことができる。163棟ものコンクリート製の建物が林立する様は、まるで一つの小さな都市のようにも見える。戸数にして5,742戸、約7500世帯、実に1万2000人が暮らすマンモス団地だ。誕生から50年を経た現在、団地は高齢化が著しく進み、ひとり暮らしの世帯が多世代にわたって増えていると聞く。子供たちの姿は少なく、公園の遊具は錆びつき、商店街はシャッターを閉ざした店ばかり。色褪せた看板、そして、どこか活気を失った団地の外観は、まるで時代に取り残されたかのようだった。その巨大な躯体は、かつての栄光の象徴というよりは、むしろ老いと疲弊の象徴に見えた。そんな巨大な団地に、一体何があったのだろうか。

 母は不安げに首をかしげた。「いや、具体的なことは分からないんだけど、なんだか不気味な話が多いって聞いただけなの。夜になると、団地の奥の方から、うめき声のようなものが聞こえるとか、誰もいないはずの部屋から視線を感じるとか…深夜に子供の泣き声が響くこともあるって。なんだか薄気味悪いって、子どもたちを団地に近寄らせないように言う親御さんが増えてるらしいわよ」

 父は「単なる気のせいだろう。古い団地だから、そういう噂も立ちやすいんだ。ましてや、あそこは鷹之台カンツリークラブの南西に位置する、広大な敷地だから、いろんな話が生まれるんだろう。コンクリートの建物は、夜になるといろんな音が反響しやすいしな」と笑い飛ばしたが、その声にはどこか、無理に納得させようとするような響きがあった。母の表情には、一抹の不安が深く刻まれているようだった。その時の会話は、ほんの些細なものとして、すぐに忘れ去られるはずだった。まさか、その「変な噂」が、やがて私たち家族の平穏な日常を侵食し、想像を絶する恐怖へと巻き込むことになろうとは、その場にいた誰も知る由もなかった。

 数日後、芽依は学校からの帰り道、少し遠回りをして花見川団地の近くを通った。前日の母の言葉が頭の片隅にあり、無意識のうちに足がそちらへ向かったのかもしれない。好奇心と、かすかな不安が彼女の足を団地の方向へと向けさせた。高い建物が規則的に並び立つ様は、遠くから見ると壮観だったが、近くで見るとその威圧感は増すばかりだった。壁の塗装は剥がれ落ち、ところどころにひび割れが見える。苔むしたコンクリートの表面は、まるで生き物の皮膚のように見えた。窓ガラスは薄汚れていて、部屋の中の様子を伺うことはできない。どの窓もカーテンが閉ざされ、まるで中の住民が外界との接触を拒んでいるかのようだった。陽光が十分に降り注いでいるにもかかわらず、団地全体がどこか薄暗く、陰鬱な雰囲気を漂わせている。まるで、巨大な墓標が立ち並んでいるかのようだった。昼間だというのに、妙に静まり返っていて、人の気配もまばらだ。時折、団地特有の、埃とカビと、そして何の匂いか分からない、奇妙な臭いが風に乗って運ばれてくる。

 この日は、団地の一角にある集会所前に、見慣れない救急車が止まっているのが目に入った。赤色灯が静かに点滅し、あたりには緊張感が漂っている。数人の住民が遠巻きに集まって、不安げに救急車を見つめていた。担架に乗せられた人影が、慌ただしく救急車に運び込まれるのが見えた。シーツで覆われているため、性別も年齢も分からないが、その運び出され方には、尋常ならざる雰囲気があった。ただの急病だろうと自分に言い聞かせたが、妙な胸騒ぎがした。それは、母が話していた「変な噂」と無関係ではないような、漠然とした不安だった。芽依は、団地内の小さな公園で遊んでいた琥右と碧央にその話をしたが、二人とも特に気に留める様子もなかった。琥右は「誰かお腹でも痛くなったんじゃない?パンケーキ食べすぎたのかな?」と呑気なことを言い、碧央は砂場で夢中になって何かを掘り起こしていた。芽依の胸に去来する不穏な予感は、彼らにはまだ届いていなかった。彼らの世界は、まだ、現実の恐怖から守られていた。

 しかし、その日の夜、平穏な食卓に突然、ニュース速報が流れた。テレビの画面に映し出されたのは、聞き慣れた「花見川団地」の文字。一家は箸を止め、画面に釘付けになった。アナウンサーの硬い声が、耳に突き刺さる。その声は、どこか緊迫感を帯びていた。

 「…本日午後、千葉市花見川区の花見川団地2号棟に住む、鈴木一郎さん(78歳)と妻の鈴木花子さん(75歳)が、自宅で死亡しているのが発見されました。遺体には目立った外傷はなく、死因は現在調査中とのことですが、現場の状況から、警察は事件とみて捜査を進めています…」

 一家は凍りついた。鈴木老夫婦。その名前は、彼らにとって決して他人事ではなかった。鈴木老夫婦は、以前、鷹の台弁天公園で三姉弟が遊んでいた時に、いつも優しく声をかけてくれた顔見知りの夫婦だった。夏の暑い日には冷たい麦茶を差し入れてくれたり、冬には芽依に手編みのマフラーを、琥右と碧央には可愛い動物の形の編みぐるみや手袋をプレゼントしてくれたり。いつも温かい笑顔で、三人の成長をまるで孫のように見守ってくれていた。突然の訃報に、三姉弟は大きなショックを受けた。彼らの心の中に、優しい思い出とともに、深い悲しみが押し寄せた。

 「どうして、あんなに優しい人たちが…」芽依の目に、大粒の涙が滲んだ。彼女の心優しい性格が、この悲劇をより一層重く受け止めていた。食欲も失せ、胸が締め付けられるように苦しい。
 琥右は「泥棒か強盗かな?おじいちゃんもおばあちゃんも、たくさんお金持ってたのかな?」とつぶやいたが、その声はどこか震えていた。幼い彼なりに、状況の異様さを感じ取っていたのだろう。目の前のパンケーキの甘い記憶は、あっという間に恐怖に塗り替えられていた。碧央は黙ってニュース画面を食い入るように見つめていた。彼の小さな瞳には、すでに何かを見透かすような、大人顔負けの深い色が宿っていた。まるで、画面の向こうに、何か見えないものを見ているかのようだった。彼の観察力は、時に大人の想像をはるかに超える鋭さを見せる。

 事件は連日報道されたものの、警察の捜査は難航を極めた。不可解なことに、現場には争った形跡も、物色された様子もなかった。ドアも窓も施錠されており、外部からの侵入形跡は皆無。まるで、老夫婦が自ら鍵をかけて、誰かを、あるいは何かを招き入れたかのようだった。しかし、鈴木老夫婦の顔には、この世のものとは思えないほどの、極度の恐怖と苦痛に歪んだ表情が貼り付いていたという。彼らの目は大きく見開かれ、口は何かを叫ぼうとしたまま固まっている。まるで、想像を絶する何かを目にし、あるいは体感したかのようだった。その異様な死に方が、住民たちの間に不穏な憶測を呼び起こした。そして、その憶測は、次第に「呪い」という言葉に収斂していく。団地の住民たちは、口々に「祟りだ」「悪霊の仕業だ」と囁き始めた。

 そして、間もなく、団地ではさらなる不可解な出来事が頻発するようになった。
鈴木老夫婦の死から一週間後、団地の5号棟に住む会社員の男性が自宅のベランダから転落死した。警察は事故と判断したが、男性は極度の高所恐怖症で、ベランダに出ることすら滅多になかったはずだ。彼の自宅は10階に位置し、そこから転落したとなれば、まさしく尋常ではない。不可解なことに、彼の顔にもまた、鈴木老夫婦と同じく、激しい恐怖の表情が刻まれていたという。彼の部屋の窓は、内側から激しく叩きつけられたような痕があり、まるで、彼が何かに追われてベランダへと追い詰められたかのようだった。その血痕は、まるで何かの文字を描いているかのようにも見えた。

 その数日後には、別の棟に住む若い女性が自宅で突然錯乱状態に陥った。彼女は、何かに怯えるように部屋中を逃げ回り、「来るな!」「あっちへ行け!」「見ないで!私の体を見ないで!」と意味不明な言葉を叫び続けた。近隣住民が異変に気づき通報したが、駆けつけた救急隊員が部屋に入った時には、彼女は泡を吹いて倒れ、そのまま意識を失った。最成病院に搬送されたが、一命は取り留めたものの、意識は戻らず、精神状態は不安定なままだという。彼女の部屋には、至るところに引っ掻き傷があり、壁には血痕のようなものが飛び散っていた。まるで、彼女が何かと激しく格闘したかのような痕跡だ。そして、彼女の部屋から回収されたスマートフォンには、不可解なメッセージが残されていた。「私は、あそこにいる…」

 次々と起こる奇妙な死や事件に、団地の住民たちは恐怖に怯え始めた。団地全体を、まるで黒い靄が覆っているかのように、不穏な空気が蔓延していった。誰もが、いつ自分にその番が回ってくるのかと、疑心暗鬼に陥っていた。日中でも住民たちは外出を控え、窓は固く閉ざされ、カーテンは引かれたまま。団地全体がまるで巨大な墓標のようだった。かつて響き渡った子供たちの遊び声も、高齢者の談笑も、すっかり聞かれなくなった。団地の集会所では、連日、住民たちが集まっては、不安な顔で対策を話し合っているが、有効な手立ては見つからない。

 「これって、もしかして…呪い?」琥右が震える声で言った。彼の活発な性格も、こんな得体のしれない恐怖の前では何の役にも立たない。彼の顔は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいた。
碧央は静かに頷いた。彼の小さな体が、微かに震えている。しかし、その瞳には、恐怖だけではない、何か確かなものを見据えるような光があった。「僕もそう思う。ただの事件じゃない。…何か、冷たいものが団地にいる。…とても、悲しくて、怒ってるもの」

 芽依は、事件の報道を見るたびに、胸騒ぎがしていた。特に、被害者たちが死ぬ直前に、共通して「女の影を見た」「うめき声が聞こえた」と証言していたことが、彼女の心に強く引っかかっていた。それは、決して単なる偶然では片付けられない、明確な繋がりがあるように思えた。団地全体を覆う不気味な空気は、まるで冷たい指先で心臓を掴まれているかのような、言いようのない圧迫感を伴っていた。彼らの住む横戸町は平和だったはずなのに、隣接するこの巨大な団地が、まるで底なし沼のように、次々と恐怖を吐き出しているように感じられた。このままだと、次は誰が犠牲になるのかわからない。そして、その犠牲者が、自分たちの家族になる可能性もゼロではない。芽依は、自らの手でこの不可解な事件の真相を探り、この悪夢を終わらせる決意を固めた。その小さな胸に、恐怖と使命感が同時に宿った瞬間だった。

第二章 悪霊の影

 鈴木老夫婦の無残な死、そして団地で頻発する不可解な事件。それらが「呪い」であると、幼い碧央が言い放ったとき、芽依と琥右の胸には、理性では説明できない恐ろしさと、しかし無視できない確かな予感が芽生えていた。特に、被害者たちが最期に見たという「女の影」という共通の証言が、芽依の頭から離れない。学校の授業中も、通学路を歩いている時も、ふとした瞬間にあの冷たい視線を感じるような錯覚に陥った。それは、まるで、見えない存在が彼らの日常に忍び寄り、静かに監視しているかのようだった。

 「このままだと、きっと次が誰か分からなくなる。あの人たちの死の本当の原因は、警察では突き止められないわ。私たちが、何かしないと」

 芽依の決意は固かった。彼女の心優しい性格が、見ず知らずの他人の悲劇を放置することを許さなかった。琥右は初めは怖がっていたものの、持ち前の正義感と、どこか冒険好きな一面が顔を出し始めた。「でも、幽霊って、本当にいるのかな?もし本当にいたら、どうするんだよ…」彼の不安な声は、しかし、すぐに好奇心に塗り替えられていく。そして、何よりも、碧央の鋭い直感が彼らを突き動かした。碧央は、事件が起こるたびに、まるで団地の奥底から響くかすかな呻き声のようなものを感じ取っているようだった。彼は、事件の核心に触れることができる、唯一の存在だと、芽依は直感的に理解していた。

 日曜日の午後、彼らは両親に「花美川中央公園で遊んでくる」と告げ、家を出た。母は、最近の団地の不穏な噂を耳にしているからか、彼らを見送る目がいつもより不安げだったが、まさか子供たちが自ら危険な場所へと足を踏み入れようとしているとは、夢にも思っていなかっただろう。横戸町の自宅から花見川を渡り、赤い弁天橋を越えると、いつもの明るい公園ではなく、その足は自然と花見川団地へと向かっていた。彼らの心臓は、まるでこれから起こる出来事を予感するかのように、激しく鼓動していた。

 空は薄曇りで、陽光はほとんど差し込まず、団地全体をどんよりとした灰色の靄が覆っているようだった。アスファルトの道路には、前夜に降った雨がまだ乾ききらず、街路樹の葉もどこか湿気を帯びて見える。団地の入り口に差し掛かると、肌を刺すような冷気が彼らを包み込んだ。それは、単なる気温の低下ではない。まるで、生き物の熱が吸い取られるかのような、内側から凍りつくような寒気だった。ひゅー、と風が吹き抜けるたびに、廃墟のような建物から、まるで誰かのすすり泣きのような音が聞こえる。団地の中は、日曜日にもかかわらず、驚くほど静まり返っていた。普段なら聞こえるはずの子供たちの賑やかな声も、住民たちの生活音も、ほとんど聞こえない。時折、古びた換気扇の回転音が、低く、不気味に響くだけだ。洗濯物が干されているベランダもほとんどなく、窓はどれも固く閉じられている。まるで、団地そのものが息を潜め、何か恐ろしいものの存在に怯えているかのようだった。

 「なんか、寒い…」琥右が思わず腕を擦った。彼の体は、瞬く間に鳥肌で覆われた。活発な彼の表情には、明らかに怯えの色が浮かんでいる。彼の持ち前の明るさは、この場所ではすっかり影を潜めていた。

 碧央は、いつものおませな表情を消し、辺りを鋭い目つきで観察していた。彼の小さな体から、研ぎ澄まされた集中力が放たれている。まるで、目に見えない何かを捉えようとしているかのようだ。 「この団地、変な匂いがする」 碧央の言葉に、芽依と琥右は鼻を動かした。確かに、どこからともなく、微かにカビのような、湿った土のような、そして…何か得体のしれない、生臭い匂いが漂っていた。それは、まるで何かが腐敗しているような、あるいは、血の匂いにも似ていた。強烈な不快感が、彼らの胃の腑を締め付ける。まるで、この団地そのものが、腐敗と死の匂いを纏っているかのようだった。

 鈴木老夫婦が住んでいた2号棟の前に立つと、冷気は一層強くなった。建物の壁は古び、ところどころひび割れている。雨水が染み込んだ跡が黒ずんで、まるで血の染みのようにも見える。窓ガラスは薄汚れていて、部屋の中の様子を伺うことはできない。しかし、その窓の向こうから、無数の視線を感じるような錯覚に陥った。まるで、団地中の住民の目が、彼らの一挙手一挙足を見つめているかのようだ。背筋を這い上がるような感覚に襲われ、芽依は思わず身震いした。

 その時、2号棟のベランダから、何か黒い影がさっと横切るのが見えた。それは一瞬のことで、残像かとも思えたが、確かに人のような形をしていた。陽炎のように揺らめき、瞬く間に消えた。芽依は思わず目を凝らしたが、もうそこには何も見えない。しかし、その影が、彼女たちのいる場所をじっと見つめていたような、そんな気がしてならなかった。その視線は、冷たく、深く、彼らの魂の奥底まで突き刺さるような感覚を芽依に与えた。

 「今、何か見えたような…」芽依が震える声で言った。彼女の声もまた、その恐怖を裏付けるかのように、かすれていた。 琥右は「気のせいだよ」と笑い飛ばそうとしたが、その声はひどく強張っていた。彼の顔は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいる。無理に平静を装っているのが丸わかりだった。彼の目は泳ぎ、落ち着かない様子だった。 しかし、碧央は違った。彼は一点を見つめたまま、真剣な顔でそのベランダを見上げていた。彼の瞳には、芽依や琥右には見えないものが映っているかのように、深い色が宿っていた。まるで、その影と直接対話しているかのようだった。 「あれは、影じゃない。あれは…人だ。でも、生きてる人じゃない」 碧央の言葉は、まるで地面の底から響くように、彼らの耳に深く突き刺さった。彼の言葉には、子供とは思えないほどの重みと真実味が込められていた。それは、彼らの抱いていた漠然とした不安を、確固たる恐怖へと変えるに十分だった。

 三人は、恐怖に足がすくみながらも、団地の奥へと足を進めた。まるで何かに引き寄せられるかのように、彼らの足は勝手に動いている。団地は、どこまでも続く迷路のようだった。同じような建物が規則的に並び、どこを向いても同じ風景が広がる。だが、よく見ると、各棟の色褪せた外壁や、ベランダに積まれたガラクタ、あるいは割れた窓ガラスなどが、それぞれの棟の歴史と、そこに住む人々の生活の痕跡を物語っていた。しかし、その中で、彼らの心は一点の場所に引き寄せられていた。それは、柏市民の森に隣接する、団地の最奥部にある、使われていない古びた貯水槽だった。

 貯水槽へと向かう道は、住民もほとんど通らない、細く、苔むした道だった。周囲には背の高い雑草が生い茂り、昼間だというのに薄暗い。空気は重く、ひんやりとしている。鳥の声も虫の声も聞こえない。ただ、彼らの靴が枯れ葉を踏みしめる音だけが、やけに大きく響く。鬱蒼とした木々の合間から、貯水槽の無機質なコンクリートの塊が見え隠れする。貯水槽は、コンクリートの壁が剥がれ落ち、鉄筋がむき出しになった廃墟のような佇まいをしていた。大きな錆びついた蓋は、まるで怪物の目のようにも見える。苔が生い茂り、薄暗い影が深く落ちている。誰も近づかない、まるで時間が止まったような場所だということがすぐに分かった。その異様な静けさが、かえって彼らを不安にさせた。昼間だというのに、そこだけ時間が止まって、夜の帳が降りたような暗闇に包まれている。陽光は、厚い雲と高い木々に遮られ、ほとんど届かない。

 貯水槽の前に立つと、碧央が急に立ち止まり、蓋の方向をじっと見つめた。彼の小さな体が、微かに震えている。顔は蒼白で、何か恐ろしいものを見ているかのようだった。その小さな額には、冷たい汗が滲んでいた。

 「…声がする」彼の声は、まるで遠い場所に意識があるかのように、虚ろだった。しかし、その声は、これまでで最も強く、はっきりと響いた。 「え?何の?」琥右が耳を澄ませたが、何も聞こえない。周囲には、風の音すら響かない。聞こえるのは、彼らの荒い息遣いと、心臓の激しい鼓動だけだ。 「悲しい声…助けてって言ってる」碧央の顔色は蒼白だった。彼の瞳には、かすかな光が宿っている。それは、恐怖の光ではなく、何かを見通すような、神秘的な光だった。

 次の瞬間、貯水槽の周りの空気が急に冷たくなったように感じた。それは、まるで氷の塊が体の中を通り抜けるかのような、耐え難い冷気だった。その冷気は、肌を刺すだけでなく、骨の髄まで染み渡り、彼らの体温を奪っていく。同時に、貯水槽の中から、うめき声のような、か細い音が聞こえてきたような気がした。それは、地を這うような低い声で、耳の奥から直接響いてくるような不快な音だった。それは、苦痛と絶望に満ちた、女性のうめき声だった。怨念が凝縮されたような、深い、深い悲鳴。芽依は恐怖に体がすくんだ。足が地面に縫い付けられたかのように動かない。琥右は顔を真っ青にして、芽依の背中にしがみついた。彼の大きな体が、恐怖で震えているのが伝わってくる。碧央だけが、その声に耳を傾けるかのように、貯水槽の蓋を見つめ続けていた。彼の小さな口元が、何かを呟いているようだった。

 その日の夜、芽依の夢の中に、恐ろしい女の姿が現れた。それは、先日見たあの影と同じだった。長い黒髪は、まるで生きているかのようにうねり、顔は判別できないほどに闇に溶け込んでいる。ただ、怨めしげな目だけが、暗闇の中でぞっとするほど鮮やかに光っていた。その目は、芽依の魂の奥底まで見透かすかのように、深く、冷たく、そして激しい憎悪を宿していた。女は芽依に向かって、何かを訴えかけているようだったが、声は聞こえない。しかし、その女の感情が、芽依の心の中に直接流れ込んできた。それは、深い絶望と、激しい憎悪。そして、耐え難いほどの苦痛だった。女の顔が、ゆっくりと、しかし確実に芽依に近づいてくる。その口元が、何かを囁いている。聞き取れないが、それが呪いの言葉であることは直感的に理解できた。芽依は恐怖に駆られ、飛び起きた。汗びっしょりで、心臓がバクバクと鳴っていた。息は荒く、全身が震えている。隣で無邪気に寝息を立てる琥右と碧央の寝息が、やけに遠く聞こえる。部屋の隅には、まだあの女の残像が揺れているように思えた。窓の外を見れば、暗闇の中に花見川団地の巨大なシルエットが浮かんでいる。団地の呪いが、確実に彼らの日常に忍び寄り始めていた。それは、もはや彼ら自身の問題だった。

第三章 幽霊との接触

 芽依は悪夢から覚めても、心臓の鼓動が激しかった。全身を覆う冷や汗が、寝間着にべっとりと張り付いている。まだ全身にまとわりつくような冷気を感じ、部屋の隅を凝視する。暗闇の中に潜む何かが、今にも姿を現しそうな錯覚に陥った。何もいない。しかし、あの女の虚ろな目が、脳裏に焼き付いて離れない。琥右と碧央は、隣で無邪気に寝息を立てている。その平和な寝顔を見るたび、芽依の心は引き裂かれるようだった。このままではいけない。あの貯水槽にいる「何か」と向き合わなければ、この悪夢は終わらない。そして、あの「助けて」という声が、彼女の耳の奥で、まだ響き続けていた。

 翌日、学校から帰ると、三人は誰に言われるでもなく、リビングに集まった。空気は重く、誰もが口を開けば、あの恐怖が蘇ることを知っていた。しかし、沈黙を破ったのは、やはり碧央だった。彼の顔色は昨日より一層青白いが、その瞳には、強い決意が宿っていた。

 「行こう。貯水槽に。あのお姉さんの声、もっと聞きたい」

 碧央の言葉に、琥右は顔を歪めた。「えぇ?!また行くの?怖いよ、だって、手が出たんだよ!手!」彼の運動神経の良さも、こんな得体のしれない恐怖の前では何の役にも立たない。体は震え、表情は恐怖に染まっている。

 「でも、碧央は声が聞こえるんでしょ?何か、美咲さんが伝えたいことがあるんだよ。私たちしか、その声を聞いてあげられないんだから」

 芽依の言葉に、琥右はしぶしぶ頷いた。彼の心優しい性格が、結局は彼を動かした。彼らは両親に「花見川中央公園で遊んでくる」と告げ、再び花見川団地へと足を踏み入れた。昨日の体験が脳裏に焼き付いているため、団地への道中は昨日よりも一層重苦しい雰囲気だった。入口に差し掛かると、肌を刺すような冷気は相変わらず彼らを包み込み、団地全体が息を潜めているかのような静寂に包まれていた。微かに漂う血の匂いにも似た奇妙な臭いは、昨日よりも強烈になっていた。

 団地の入り口に差し掛かると、昨日よりもさらに冷たい空気が彼らを包み込んだ。それは、単なる気温の低下ではない。まるで、生き物の熱が吸い取られるかのような、内側から凍りつくような寒気だった。肌を刺すような冷気は、彼らの全身の毛穴を逆立てる。ひゅー、と風が吹き抜けるたびに、古びた建物から、まるで誰かのすすり泣きのような音が聞こえる。団地の中は、日曜日だというのに、昨日よりも一層静まり返っていた。普段なら聞こえるはずの子供たちの賑やかな声も、住民たちの生活音も、ほとんど聞こえない。時折、古びた換気扇の回転音が、低く、不気味に響くだけだ。洗濯物が干されているベランダもほとんどなく、窓はどれも固く閉じられている。カーテンも引かれたままで、中に人の気配がほとんど感じられない。まるで、団地そのものが息を潜め、何か恐ろしいものの存在に怯えているかのようだった。陽光が十分に降り注いでいるにもかかわらず、団地全体がどこか薄暗く、陰鬱な雰囲気を漂わせている。まるで、巨大な墓標が立ち並んでいるかのようだった。

 団地特有の、埃とカビと、そして何の匂いか分からない、奇妙な臭いが、昨日よりもさらに強烈になって彼らの鼻腔を刺激した。それは、まるで何かが腐敗しているような、あるいは、血の匂いにも似ていた。強烈な不快感が、彼らの胃の腑を締め付ける。まるで、この団地そのものが、腐敗と死の匂いを纏っているかのようだった。

 鈴木老夫婦が住んでいた2号棟の前に立つと、冷気は一層強くなった。建物の壁は古び、ところどころひび割れている。雨水が染み込んだ跡が黒ずんで、まるで血の染みのようにも見える。窓ガラスは薄汚れていて、部屋の中の様子を伺うことはできない。しかし、その窓の向こうから、無数の視線を感じるような錯覚に陥った。まるで、団地中の住民の目が、彼らの一挙手一投足を見つめているかのようだ。その視線は、彼らの存在そのものを嘲笑うかのように、冷たく、深く、彼らの魂の奥底まで突き刺さるような感覚を芽依に与えた。

 その時、2号棟のベランダから、何か黒い影がさっと横切るのが見えた。それは一瞬のことで、残像かとも思えたが、確かに人のような形をしていた。陽炎のように揺らめき、瞬く間に消えた。芽依は思わず目を凝らしたが、もうそこには何も見えない。しかし、その影が、彼女たちのいる場所をじっと見つめていたような、そんな気がしてならなかった。その視線は、冷たく、深く、彼らの魂の奥底まで突き刺さるような感覚を芽依に与えた。

 「今、何か見えたような…」芽依が震える声で言った。彼女の声もまた、その恐怖を裏付けるかのように、かすれていた。
琥右は「気のせいだよ、きっと、鳥が飛んだだけだよ!」と笑い飛ばそうとしたが、その声はひどく強張っていた。彼の顔は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいる。無理に平静を装っているのが丸わかりだった。彼の目は泳ぎ、落ち着かない様子だった。
しかし、碧央は違った。彼は一点を見つめたまま、真剣な顔でそのベランダを見上げていた。彼の瞳には、芽依や琥右には見えないものが映っているかのように、深い色が宿っていた。まるで、その影と直接対話しているかのようだった。
「あれは、影じゃない。あれは…人だ。でも、生きてる人じゃない。…あの人、怒ってる」
碧央の言葉は、まるで地面の底から響くように、彼らの耳に深く突き刺さった。彼の言葉には、子供とは思えないほどの重みと真実味が込められていた。それは、彼らの抱いていた漠然とした不安を、確固たる恐怖へと変えるに十分だった。

 三人は、恐怖に足がすくみながらも、団地の奥へと足を進めた。まるで何かに引き寄せられるかのように、彼らの足は勝手に動いている。団地は、どこまでも続く迷路のようだった。同じような建物が規則的に並び、どこを向いても同じ風景が広がる。しかし、それぞれの棟は、少しずつ異なる表情を見せていた。ある棟のベランダには、無数の空の植木鉢が無造作に積まれ、別の棟の窓には、赤い文字で何か殴り書きされたような痕が見える。だが、よく見ると、各棟の色褪せた外壁や、ベランダに積まれたガラクタ、あるいは割れた窓ガラスなどが、それぞれの棟の歴史と、そこに住む人々の生活の痕跡を物語っていた。しかし、その痕跡は、どこか悲しく、打ち捨てられたような雰囲気を醸し出していた。

 彼らの心は一点の場所に引き寄せられていた。それは、柏市民の森に隣接する、団地の最奥部にある、使われていない古びた貯水槽だった。貯水槽へと向かう道は、住民もほとんど通らない、細く、苔むした道だった。周囲には背の高い雑草が生い茂り、昼間だというのに薄暗い。空気は重く、ひんやりとしている。鳥の声も虫の声も聞こえない。ただ、彼らの靴が枯れ葉を踏みしめる音だけが、やけに大きく響く。鬱蒼とした木々の合間から、貯水槽の無機質なコンクリートの塊が見え隠れする。近づくにつれて、その姿はより一層大きく、そして不気味に見えてきた。

 貯水槽は、コンクリートの壁が剥がれ落ち、鉄筋がむき出しになった廃墟のような佇まいをしていた。大きな錆びついた蓋は、まるで怪物の目のようにも見える。苔が生い茂り、薄暗い影が深く落ちている。周囲には、誰かが捨てたであろう錆びた空き缶や、プラスチックの破片が散乱し、その場所が完全に忘れ去られていることを示していた。誰も近づかない、まるで時間が止まったような場所だということがすぐに分かった。その異様な静けさが、かえって彼らを不安にさせた。昼間だというのに、そこだけ時間が止まって、夜の帳が降りたような暗闇に包まれている。陽光は、厚い雲と高い木々に遮られ、ほとんど届かない。

 貯水槽の前に立つと、碧央が急に立ち止まり、蓋の方向をじっと見つめた。彼の小さな体が、微かに震えている。顔は蒼白で、何か恐ろしいものを見ているかのようだった。その小さな額には、冷たい汗が滲んでいた。
「…声がする」彼の声は、まるで遠い場所に意識があるかのように、虚ろだった。しかし、その声は、これまでで最も強く、はっきりと響いた。
「え?何の?」琥右が耳を澄ませたが、何も聞こえない。周囲には、風の音すら響かない。聞こえるのは、彼らの荒い息遣いと、心臓の激しい鼓動だけだ。心臓が、まるで警鐘を鳴らすかのように、ドクン、ドクンと激しく脈打つ。
「悲しい声…助けてって言ってる」碧央の顔色は蒼白だった。彼の瞳には、かすかな光が宿っている。それは、恐怖の光ではなく、何かを見通すような、神秘的な光だった。

 次の瞬間、貯水槽の周りの空気が急に冷たくなったように感じた。それは、まるで氷の塊が体の中を通り抜けるかのような、耐え難い冷気だった。その冷気は、肌を刺すだけでなく、骨の髄まで染み渡り、彼らの体温を奪っていく。同時に、貯水槽の中から、うめき声のような、か細い音が聞こえてきたような気がした。それは、地を這うような低い声で、耳の奥から直接響いてくるような不快な音だった。怨念が凝縮されたような、深い、深い悲鳴。それは、苦痛と絶望に満ちた、女性のうめき声だった。そして、その声は、彼らの心を直接掴み、深い悲しみに引きずり込もうとする。芽依は恐怖に体がすくんだ。足が地面に縫い付けられたかのように動かない。琥右は顔を真っ青にして、芽依の背中にしがみついた。彼の大きな体が、恐怖で震えているのが伝わってくる。碧央だけが、その声に耳を傾けるかのように、貯水槽の蓋を見つめ続けていた。彼の小さな口元が、何かを呟いているようだった。彼の視線は、貯水槽の底の、見えない闇のさらに奥を見つめているかのようだった。

 芽依は、いてもたってもいられなくなり、意を決して貯水槽の蓋に手をかけた。その冷たさに、思わず息を呑む。金属の冷たさではなく、もっと根本的な、命を奪うような冷たさだ。まるで、この蓋自体が、氷の塊でできているかのようだった。手のひらから、冷気がじんわりと体中に染み渡る。

すると、蓋がゆっくりと、まるで自らの意思を持っているかのように開き始めた。ギィィィ…と錆びついた蝶番がきしむ音が、静まり返った団地に響き渡る。その音は、まるで古い扉が地獄の入り口を開くかのようだ。中を覗き込むと、水は澱み、底は見えない。薄暗い水面は、まるで黒い鏡のようだった。その水面には、周囲の景色がぼんやりと映り込んでいる。しかし、その水面に、うっすらと人影が映っているような気がした。それは、水面にゆらめく、白い着物のようなものをまとった人影だった。

 「あれ、何…?」琥右が指差した。その指先が小刻みに震えている。声も震え、ほとんど聞き取れない。
その時、水面から、白い手がすっと伸びてきた。その指は細く、長く伸びた爪は、まるで生き血を求めるかのように、水面から突き出している。爪の先は青黒く、まるで死人の爪のようだった。三人は悲鳴を上げて後ずさりした。体が、まるで電撃を受けたかのように硬直する。手が伸びきった先には、長い黒髪の女の顔が、ゆっくりと水面から浮かび上がってきた。顔は青白く、まるで死人のよう。その皮膚はひび割れ、ところどころ剥がれている。目は虚ろで、焦点が合っていない。しかし、その虚ろな瞳は、確かに彼らの方を向いていた。口は何かを訴えるかのように開いていたが、そこから聞こえるのは、水がぼこぼこと湧き上がるような、不気味な音だけだ。その顔は、芽依の夢に出てきた女の姿と寸分違わなかった。

 「助けて…」かすれた声が聞こえた。それは、水の中から響くような、沈んだ声だった。しかし、その言葉には、深い悲しみと、抑えきれないほどの怨念が込められていた。その声は、まるで彼らの脳に直接語りかけるかのように、心の奥底に響き渡った。

 三人は、一目散に逃げ出した。団地の奥から入り口まで、彼らは脇目も振らずに走り続けた。琥右は、転びそうになりながらも、決して振り返らなかった。碧央は、小さな手を芽依の服に強く握りしめ、顔は蒼白だが、その目はしっかりと前を見据えていた。背後から、あの女の視線を感じているような気がした。冷たい、粘りつくような視線が、彼らの背中に突き刺さる。そして、どこからともなく、女のすすり泣くような声が追いかけてくる。京成本線八千代台駅まで逃げ、駅の構内に入るまで、その視線は途切れなかった。駅のホームの喧騒と、電車の轟音が、彼らをようやく現実へと引き戻した。ようやく電車に乗り込み、窓から団地が遠ざかっていくのを見て、やっと安堵の息をつくことができた。しかし、その胸に残るのは、底知れない恐怖と、あの「助けて」という言葉の残響だった。

 家に帰り着き、三人は恐怖のあまり、その出来事を両親に話すことができなかった。話しても、信じてもらえないだろう。むしろ、自分たちが心配されるだけだ。彼らは、あの女の幽霊が、団地の事件に関わっていることは確信していた。そして、あの「助けて」という言葉が、彼らの心に深く突き刺さっていた。幽霊は、なぜそこにいるのか。何が彼女をそこにとどめているのか。彼らは、自らの手でその謎を解き明かすしかない、と強く感じていた。彼らの無邪気な日常は、この日から、見えないものとの戦いに巻き込まれることになった。それは、大人たちが踏み込めない、子供たちだけの、秘密の領域だった。

第四章 消えた女子高生の謎

 貯水槽での体験は、三姉弟の日常を一変させた。あの冷たい手、虚ろな目、そして水の中から響いた「助けて」という声。すべてが鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。夜は眠りが浅くなり、ふとした瞬間にあの青白い顔や、水の中から伸びてきた手が脳裏をよぎる。食事中も、テレビを見ている時も、どこか遠くで女のすすり泣くような声が聞こえるような錯覚に陥った。しかし、恐怖の底には、あの幽霊の「助けて」という言葉が響き続けていた。彼女はただ怨んでいるだけではない。何かを伝えようとしている。その思いが、彼らを突き動かした。

 翌日、学校から帰ると、三人は誰に言われるでもなく、リビングに集まった。普段なら明るい笑い声が響くこの部屋も、今は重い空気に包まれている。誰もが口を開けば、あの恐怖が蘇ることを知っていた。しかし、沈黙を破ったのは、やはり碧央だった。彼の顔色は昨日より一層青白いが、その瞳には、強い決意が宿っていた。

 「お姉さんの声、ずっと聞こえるよ。ここに来てって言ってる。もっと、ちゃんと聞いてあげないと」

 碧央の言葉に、琥右は顔を歪めた。「えぇ?!また貯水槽に行くの?怖いよ、だって、手が出たんだよ!手!」彼の運動神経の良さも、こんな得体のしれない恐怖の前では何の役にも立たない。体は震え、表情は恐怖に染まっている。しかし、碧央のまっすぐな目に、彼は反論できなかった。

 「でも、碧央は声が聞こえるんでしょ?何か、美咲さんが私たちに伝えたいことがあるんだよ。私たちしか、その声を聞いてあげられないんだから。あの人を助けるには、私たちしかいないんだよ」

 芽依の言葉に、琥右はしぶしぶ頷いた。彼の心優しい性格が、結局は彼を動かした。三姉弟は、両親には「花見川中央公園で遊んでくる」と告げ、家を出た。母は、最近の団地の不穏な噂を耳にしているからか、彼らを見送る目がいつもより不安げだったが、まさか子供たちが自ら危険な場所へと足を踏み入れようとしているとは、夢にも思っていなかっただろう。横戸町の自宅から花見川を渡り、赤い弁天橋を越えると、いつもの明るい公園ではなく、その足は自然と花見川団地へと向かっていた。彼らの心臓は、まるでこれから起こる出来事を予感するかのように、激しく鼓動していた。

 団地の入り口に差し掛かると、昨日よりもさらに冷たい空気が彼らを包み込んだ。それは、単なる気温の低下ではない。まるで、生き物の熱が吸い取られるかのような、内側から凍りつくような寒気だった。肌を刺すような冷気は、彼らの全身の毛穴を逆立てる。ひゅー、と風が吹き抜けるたびに、古びた建物から、まるで誰かのすすり泣きのような音が聞こえる。団地の中は、日曜日だというのに、昨日よりも一層静まり返っていた。普段なら聞こえるはずの子供たちの賑やかな声も、住民たちの生活音も、ほとんど聞こえない。時折、古びた換気扇の回転音が、低く、不気味に響くだけだ。洗濯物が干されているベランダもほとんどなく、窓はどれも固く閉じられている。カーテンも引かれたままで、中に人の気配がほとんど感じられない。まるで、団地そのものが息を潜め、何か恐ろしいものの存在に怯えているかのようだった。陽光が十分に降り注いでいるにもかかわらず、団地全体がどこか薄暗く、陰鬱な雰囲気を漂わせている。まるで、巨大な墓標が立ち並んでいるかのようだった。

 団地特有の、埃とカビと、そして何の匂いか分からない、奇妙な臭いが、昨日よりもさらに強烈になって彼らの鼻腔を刺激した。それは、まるで何かが腐敗しているような、あるいは、血の匂いにも似ていた。強烈な不快感が、彼らの胃の腑を締め付ける。まるで、この団地そのものが、腐敗と死の匂いを纏っているかのようだった。

 鈴木老夫婦が住んでいた2号棟の前に立つと、冷気は一層強くなった。建物の壁は古び、ところどころひび割れている。雨水が染み込んだ跡が黒ずんで、まるで血の染みのようにも見える。窓ガラスは薄汚れていて、部屋の中の様子を伺うことはできない。しかし、その窓の向こうから、無数の視線を感じるような錯覚に陥った。まるで、団地中の住民の目が、彼らの一挙手一投足を見つめているかのようだ。その視線は、彼らの存在そのものを嘲笑うかのように、冷たく、深く、彼らの魂の奥底まで突き刺さるような感覚を芽依に与えた。

 その時、2号棟のベランダから、何か黒い影がさっと横切るのが見えた。それは一瞬のことで、残像かとも思えたが、確かに人のような形をしていた。陽炎のように揺らめき、瞬く間に消えた。芽依は思わず目を凝らしたが、もうそこには何も見えない。しかし、その影が、彼女たちのいる場所をじっと見つめていたような、そんな気がしてならなかった。その視線は、冷たく、深く、彼らの魂の奥底まで突き刺さるような感覚を芽依に与えた。

 「今、何か見えたような…」芽依が震える声で言った。彼女の声もまた、その恐怖を裏付けるかのように、かすれていた。 琥右は「気のせいだよ、きっと、鳥が飛んだだけだよ!」と笑い飛ばそうとしたが、その声はひどく強張っていた。彼の顔は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいる。無理に平静を装っているのが丸わかりだった。彼の目は泳ぎ、落ち着かない様子だった。 しかし、碧央は違った。彼は一点を見つめたまま、真剣な顔でそのベランダを見上げていた。彼の瞳には、芽依や琥右には見えないものが映っているかのように、深い色が宿っていた。まるで、その影と直接対話しているかのようだった。 「あれは、影じゃない。あれは…人だ。でも、生きてる人じゃない。…あの人、怒ってる」 碧央の言葉は、まるで地面の底から響くように、彼らの耳に深く突き刺さった。彼の言葉には、子供とは思えないほどの重みと真実味が込められていた。それは、彼らの抱いていた漠然とした不安を、確固たる恐怖へと変えるに十分だった。

 三人は、恐怖に足がすくみながらも、団地の奥へと足を進めた。まるで何かに引き寄せられるかのように、彼らの足は勝手に動いている。団地は、どこまでも続く迷路のようだった。同じような建物が規則的に並び、どこを向いても同じ風景が広がる。しかし、それぞれの棟は、少しずつ異なる表情を見せていた。ある棟のベランダには、無数の空の植木鉢が無造作に積まれ、別の棟の窓には、赤い文字で何か殴り書きされたような痕が見える。だが、よく見ると、各棟の色褪せた外壁や、ベランダに積まれたガラクタ、あるいは割れた窓ガラスなどが、それぞれの棟の歴史と、そこに住む人々の生活の痕跡を物語っていた。しかし、その痕跡は、どこか悲しく、打ち捨てられたような雰囲気を醸し出していた。

 彼らの心は一点の場所に引き寄せられていた。それは、柏市民の森に隣接する、団地の最奥部にある、使われていない古びた貯水槽だった。貯水槽へと向かう道は、住民もほとんど通らない、細く、苔むした道だった。周囲には背の高い雑草が生い茂り、昼間だというのに薄暗い。空気は重く、ひんやりとしている。鳥の声も虫の声も聞こえない。ただ、彼らの靴が枯れ葉を踏みしめる音だけが、やけに大きく響く。鬱蒼とした木々の合間から、貯水槽の無機質なコンクリートの塊が見え隠れする。近づくにつれて、その姿はより一層大きく、そして不気味に見えてきた。

 貯水槽は、コンクリートの壁が剥がれ落ち、鉄筋がむき出しになった廃墟のような佇まいをしていた。大きな錆びついた蓋は、まるで怪物の目のようにも見える。苔が生い茂り、薄暗い影が深く落ちている。周囲には、誰かが捨てたであろう錆びた空き缶や、プラスチックの破片が散乱し、その場所が完全に忘れ去られていることを示していた。誰も近づかない、まるで時間が止まったような場所だということがすぐに分かった。その異様な静けさが、かえって彼らを不安にさせた。昼間だというのに、そこだけ時間が止まって、夜の帳が降りたような暗闇に包まれている。陽光は、厚い雲と高い木々に遮られ、ほとんど届かない。

 貯水槽の前に立つと、碧央が急に立ち止まり、蓋の方向をじっと見つめた。彼の小さな体が、微かに震えている。顔は蒼白で、何か恐ろしいものを見ているかのようだった。その小さな額には、冷たい汗が滲んでいた。 「…声がする」彼の声は、まるで遠い場所に意識があるかのように、虚ろだった。しかし、その声は、これまでで最も強く、はっきりと響いた。 「え?何の?」琥右が耳を澄ませたが、何も聞こえない。周囲には、風の音すら響かない。聞こえるのは、彼らの荒い息遣いと、心臓の激しい鼓動だけだ。心臓が、まるで警鐘を鳴らすかのように、ドクン、ドクンと激しく脈打つ。 「悲しい声…助けてって言ってる」碧央の顔色は蒼白だった。彼の瞳には、かすかな光が宿っている。それは、恐怖の光ではなく、何かを見通すような、神秘的な光だった。

 次の瞬間、貯水槽の周りの空気が急に冷たくなったように感じた。それは、まるで氷の塊が体の中を通り抜けるかのような、耐え難い冷気だった。その冷気は、肌を刺すだけでなく、骨の髄まで染み渡り、彼らの体温を奪っていく。同時に、貯水槽の中から、うめき声のような、か細い音が聞こえてきたような気がした。それは、地を這うような低い声で、耳の奥から直接響いてくるような不快な音だった。怨念が凝縮されたような、深い、深い悲鳴。それは、苦痛と絶望に満ちた、女性のうめき声だった。そして、その声は、彼らの心を直接掴み、深い悲しみに引きずり込もうとする。芽依は恐怖に体がすくんだ。足が地面に縫い付けられたかのように動かない。琥右は顔を真っ青にして、芽依の背中にしがみついた。彼の大きな体が、恐怖で震えているのが伝わってくる。碧央だけが、その声に耳を傾けるかのように、貯水槽の蓋を見つめ続けていた。彼の小さな口元が、何かを呟いているようだった。彼の視線は、貯水槽の底の、見えない闇のさらに奥を見つめているかのようだった。

 芽依は、いてもたってもいられなくなり、意を決して貯水槽の蓋に手をかけた。その冷たさに、思わず息を呑む。金属の冷たさではなく、もっと根本的な、命を奪うような冷たさだ。まるで、この蓋自体が、氷の塊でできているかのようだった。手のひらから、冷気がじんわりと体中に染み渡る。

 すると、蓋がゆっくりと、まるで自らの意思を持っているかのように開き始めた。ギィィィ…と錆びついた蝶番がきしむ音が、静まり返った団地に響き渡る。その音は、まるで古い扉が地獄の入り口を開くかのようだ。中を覗き込むと、水は澱み、底は見えない。薄暗い水面は、まるで黒い鏡のようだった。その水面には、周囲の景色がぼんやりと映り込んでいる。しかし、その水面に、うっすらと人影が映っているような気がした。それは、水面にゆらめく、白い着物のようなものをまとった人影だった。

 「あれ、何…?」琥右が指差した。その指先が小刻みに震えている。声も震え、ほとんど聞き取れない。 その時、水面から、白い手がすっと伸びてきた。その指は細く、長く伸びた爪は、まるで生き血を求めるかのように、水面から突き出している。爪の先は青黒く、まるで死人の爪のようだった。三人は悲鳴を上げて後ずさりした。体が、まるで電撃を受けたかのように硬直する。手が伸びきった先には、長い黒髪の女の顔が、ゆっくりと水面から浮かび上がってきた。顔は青白く、まるで死人のよう。その皮膚はひび割れ、ところどころ剥がれている。目は虚ろで、焦点が合っていない。しかし、その虚ろな瞳は、確かに彼らの方を向いていた。口は何かを訴えるかのように開いていたが、そこから聞こえるのは、水がぼこぼこと湧き上がるような、不気味な音だけだ。その顔は、芽依の夢に出てきた女の姿と寸分違わなかった。

 「助けて…」かすれた声が聞こえた。それは、水の中から響くような、沈んだ声だった。しかし、その言葉には、深い悲しみと、抑えきれないほどの怨念が込められていた。その声は、まるで彼らの脳に直接語りかけるかのように、心の奥底に響き渡った。

 三人は、一目散に逃げ出した。団地の奥から入り口まで、彼らは脇目も振らずに走り続けた。琥右は、転びそうになりながらも、決して振り返らなかった。彼の息は荒く、心臓は破裂しそうなくらい激しく脈打っていた。碧央は、小さな手を芽依の服に強く握りしめ、顔は蒼白だが、その目はしっかりと前を見据えていた。彼だけは、恐怖の中に、何か確かなものを見出しているようだった。背後から、あの女の視線を感じているような気がした。冷たい、粘りつくような視線が、彼らの背中に突き刺さる。そして、どこからともなく、女のすすり泣くような声が追いかけてくる。それは、団地の建物すべてが共鳴しているかのように響き渡り、彼らの逃走を阻むかのようだった。

 京成本線八千代台駅まで逃げ、駅の構内に入るまで、その視線は途切れなかった。駅のホームの喧騒と、電車の轟音が、彼らをようやく現実へと引き戻した。見知らぬ人々のざわめき、アナウンスの声、そして発車を告げるベルの音。それらが、彼らを覆っていた異世界の雰囲気を打ち消していく。ようやく電車に乗り込み、窓から団地が遠ざかっていくのを見て、やっと安堵の息をつくことができた。しかし、その胸に残るのは、底知れない恐怖と、あの「助けて」という言葉の残響だった。

 家に帰り着き、三人は恐怖のあまり、その出来事を両親に話すことができなかった。話しても、信じてもらえないだろう。むしろ、自分たちが心配されるだけだ。彼らは、あの女の幽霊が、団地の事件に関わっていることは確信していた。そして、あの「助けて」という言葉が、彼らの心に深く突き刺さっていた。幽霊は、なぜそこにいるのか。何が彼女をそこにとどめているのか。彼らは、自らの手でその謎を解き明かすしかない、と強く感じていた。彼らの無邪気な日常は、この日から、見えないものとの戦いに巻き込まれることになった。それは、大人たちが踏み込めない、子供たちだけの、秘密の領域だった。彼らは、この恐ろしい真実と向き合うことを選んだ。そして、その選択が、彼らの運命を大きく変えることになるだろう。

第五章 幽霊との対話

 美咲の失踪事件と、花見川団地で頻発する怪奇現象を結びつける線が、かすかに見えてきた。貯水槽の幽霊が、5年前に消えた女子高生、佐藤美咲であるという確信が、芽依の心に深く根を下ろしていた。しかし、恐怖は消え去らない。むしろ、真実に近づくにつれて、見えない重圧が彼らの心を締め付けていくようだった。琥右は悪夢にうなされ、夜中に突然目を覚まし、泣き出すことが増えた。碧央もまた、目に見えない「声」に常に耳を傾けているかのように、どこか上の空だった。

 「私たちは、美咲さんがなぜ貯水槽にいるのか、そして、団地で何が起こっているのかを知る必要がある。そのために、もう一度、貯水槽へ行くしかない」

 芽依の決意は固かった。彼女の心には、恐怖とともに、美咲を救いたいという強い使命感が芽生えていた。琥右は顔を真っ青にして、「いやだよ!またあの手が出るかもしれないし、あの声が聞こえるのも嫌だ!」と泣き叫んだ。しかし、碧央は静かに芽依の手を握った。彼の小さな手が、驚くほど力強く感じられた。

 「美咲お姉さん、怖がってるよ。でも、助けてほしいって言ってる。僕が、ちゃんと聞いてあげるから」

 碧央の言葉が、琥右の心を突き動かした。弟の純粋な優しさと、恐怖に打ち勝とうとする姿に、琥右はしぶしぶ頷いた。そして、週末の午後、彼らは再び花見川団地へと足を踏み入れた。両親にはいつも通り「公園へ行ってくる」と告げたが、彼らの表情には、明らかに緊張の色が浮かんでいた。

 花見川団地の入り口に差し掛かると、鉛色の空気が彼らを包み込んだ。それは、単なる湿気や埃の匂いではない。まるで、澱んだ水底から立ち上るような、古いカビと鉄錆、そして微かに血の匂いが混じったような、形容しがたい臭気が彼らの鼻腔を刺激する。日中でも薄暗い団地は、今日、一層その陰鬱さを増していた。風もなく、セミの声も聞こえない。ただ、彼らの足音がアスファルトに吸い込まれるように響くだけだ。窓はどれも固く閉ざされ、カーテンは引かれたまま。洗濯物が干されているベランダもほとんどなく、住民の生活音が一切聞こえない。まるで、団地全体が息を潜め、巨大な墓標のように沈黙しているかのようだった。

 2号棟の前を通り過ぎる時、琥右は思わず顔を背けた。そこには、先日ベランダから見下ろしていた黒い影が、今もいるような気がしたからだ。芽依もまた、建物の窓から無数の視線を感じ、背筋が凍り付くような感覚に襲われた。その視線は、彼らの存在そのものを嘲笑うかのように、冷たく、深く、彼らの魂の奥底まで突き刺さるようだった。

 団地の奥へ進むにつれて、道はさらに薄暗く、雑草が生い茂ってきた。彼らの足元を、枯れた落ち葉がカサカサと音を立てながら舞う。鬱蒼とした木々の合間から、貯水槽の無機質なコンクリートの塊が見え隠れする。近づくにつれて、その姿はより一層大きく、そして不気味に見えてきた。貯水槽は、コンクリートの壁が剥がれ落ち、鉄筋がむき出しになった廃墟のような佇まいをしていた。大きな錆びついた蓋は、まるで怪物の目のようにも見える。苔が生い茂り、薄暗い影が深く落ちている。周囲には、誰かが捨てたであろう錆びた空き缶や、プラスチックの破片が散乱し、その場所が完全に忘れ去られていることを示していた。

 貯水槽の前に立つと、昨日よりもさらに強烈な冷気が彼らを襲った。それは、肌を刺すだけでなく、骨の髄まで染み渡り、彼らの体温を奪っていく。琥右は歯をガチガチ鳴らし、小さく震え始めた。碧央は、じっと貯水槽の蓋を見つめている。彼の顔は蒼白だが、その瞳には、恐怖だけではない、何か確かなものを見据えるような光があった。

 「美咲お姉さん…いるよ。すごく、苦しそう」

 碧央の言葉が、風に乗って彼らの耳に届いた。次の瞬間、貯水槽の蓋が、ゆっくりと、まるで自らの意思を持っているかのように、ギィィィ…と錆びついた蝶番を軋ませながら開いた。その音は、静まり返った団地に不気味に響き渡る。中を覗き込むと、水は澱み、底は見えない。薄暗い水面は、まるで黒い鏡のようだった。しかし、その水面に、うっすらと人影が映っているのが見えた。それは、白い着物のようなものをまとった女の影だった。

 水面から、白い手がすっと伸びてきた。その指は細く、長く伸びた爪は、まるで生き血を求めるかのように、水面から突き出している。爪の先は青黒く、まるで死人の爪のようだった。三人は息を呑んだ。手が伸びきった先には、長い黒髪の女の顔が、ゆっくりと水面から浮かび上がってきた。顔は青白く、まるで死人のよう。その皮膚はひび割れ、ところどころ剥がれている。目は虚ろで、焦点が合っていない。しかし、その虚ろな瞳は、確かに彼らの方を向いていた。口は何かを訴えるかのように開いていたが、そこから聞こえるのは、水がぼこぼこと湧き上がるような、不気味な音だけだ。その顔は、芽依の夢に出てきた女の姿と寸分違わなかった。

 その時、碧央が貯水槽の縁にゆっくりと近づいた。琥右が「碧央!」と叫んで引き止めようとするが、碧央はまるで何か強い力に引き寄せられるかのように、じりじりと前進する。そして、貯水槽の蓋に手を置き、静かに語りかけた。

 「美咲お姉さん。僕だよ、碧央。僕たち、お姉さんのこと、助けに来たよ」

 碧央の声は、驚くほど澄んでいて、周囲の不気味な雰囲気を打ち破るかのように響いた。すると、水面から浮かび上がっていた女の顔が、わずかに揺らいだ。その虚ろな瞳に、一瞬だけ、微かな光が宿ったように見えた。そして、口元がかすかに動いた。

 「…怖い…」

 か細い声が、碧央の心に直接響いた。芽依と琥右には聞こえない、碧央だけに届く声だった。碧央は、その声に耳を傾けるかのように、じっと女の顔を見つめていた。

 「何が怖いの?何があったの?」碧央がさらに問いかけると、女の顔は苦痛に歪んだ。水面が激しく波立ち、貯水槽の中からうめき声のような音が大きく響き渡る。それは、悲しみと、怒りと、絶望が入り混じった、壮絶な叫び声だった。

 その声が、まるで映像のように、芽依と琥右の脳裏に流れ込んできた。
突然、彼らは暗い夜の道に立っていた。どこか見覚えのある、古びた街灯がまばらに道を照らしている。そこは、情報にあったエボラ通りだった。周囲には古いアパートや廃墟のような建物が並び、不気味な影を落としている。風が吹き荒れ、乾いた木の葉がカサカサと音を立てて舞う。視界の端で、女子高生が一人、怯えた表情で小走りに去っていく。それが、美咲だった。彼女は、何かに追われているかのように、何度も後ろを振り返っていた。

 次の瞬間、美咲の前に、白い作業服を着た男が立ちはだかった。男の顔は暗闇に隠れて見えないが、その背丈は高く、がっしりとした体格をしていた。男は美咲の腕を掴み、どこかへと引きずり込もうとする。美咲は必死に抵抗し、叫び声を上げた。

 「やめて!離して!」

 しかし、男は美咲の口を塞ぎ、無理やり近くの廃墟へと押し込んだ。廃墟の中はさらに暗く、埃とカビの匂いが充満している。美咲の悲鳴が、くぐもった音になり、やがて聞こえなくなった。

 そして、場面は変わる。貯水槽の周りの雑草が、まるで鎌でなぎ倒されたように荒れ果てている。水面には、大きなコンクリートの塊が転がっている。そこには、白い作業服を着た男が、何かを隠蔽しようとしているかのように、貯水槽の蓋を必死に閉じようとしている姿が見えた。男の顔には、恐怖と焦りが滲んでいる。男は、何かを重いものを引きずるようにして、貯水槽の近くまで運んできた。それは、美咲の遺体だった。男は、美咲の遺体を貯水槽へと投げ入れ、その上から重い蓋を被せた。ズシン、という鈍い音が響き渡り、美咲の存在は、闇の中に封じ込められた。

 その映像は、瞬く間に消え去った。三人は、衝撃のあまり、その場に立ち尽くしていた。琥右は、顔を真っ青にしてその場で吐き出した。芽依もまた、全身が震え、涙が止まらなかった。

 「あの男が…美咲さんを…」芽依の声は、かすれてほとんど聞き取れない。

 碧央は、貯水槽の蓋に手を置いたまま、静かに呟いた。

「お姉さんが、あの男の名前を言ってる…『サイトウ』…って」

 「サイトウ…?」芽依は頭の中で、その名前を反芻した。それは、団地の住民名簿には載っていない苗字だった。しかし、その男が、花見川団地に関わる人物であることは間違いない。 彼は、なぜ美咲を殺したのか。そして、なぜ団地で怪奇現象が起こるようになったのか。

 貯水槽の水面は、再び静けさを取り戻していた。しかし、その水底から、美咲の深い悲しみと怨念が、彼らの心を揺さぶり続けていた。彼らは、真実を知ってしまった。そして、この真実を、誰かに伝えなければならないという使命感に駆られた。しかし、相手は殺人犯だ。自分たちだけで、どうすればいいのか。彼らの小さな肩に、重い責任がのしかかった。花見川団地の闇は、想像以上に深く、そして危険なものだった。彼らの冒険は、ここからが本当の始まりだった。

第六章 犯人の特定

 貯水槽で美咲の悲痛な「助けて」を聞き、その死の状況を幻視して以来、三姉弟の心は深い闇に包まれていた。あの冷たい手、虚ろな目、そして水面に浮かんだ苦痛に歪んだ顔が、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。琥右は連日悪夢にうなされ、夜中に飛び起きては震えが止まらない。普段は布団を蹴飛ばして寝ているはずの彼が、寝汗でびっしょりになりながらも、硬く身を縮めて怯える姿は、芽依の心を深くえぐった。碧央もまた、目に見えない「声」に常に耳を傾けているかのように、どこか上の空だった。彼の瞳の奥には、美咲の悲しみと、それに伴う静かな怒りが宿っているように見えた。家族の団らんの時間ですら、団地から漂ってくるかのような重苦しい空気が、彼らの間に不穏な沈黙をもたらした。父も母も、子供たちの異変に気づいていたが、それが何かを問い詰めることはなかった。漠然とした不安が、家族の絆を蝕み始めていた。

 「サイトウ…一体誰なのよ、その男は?」

 芽依は苛立ちと不安を隠せない。警察に話しても、子供たちの荒唐無稽な証言を信じてもらえるはずがない。幽霊の幻視、水面から聞こえる声。そんなことを話せば、精神的に不安定だと判断され、逆に自分たちが危険な目に遭うかもしれない。自分たちで、この謎を解き明かすしかないのだ。しかし、相手は殺人犯。どうすれば、顔も知らない「サイトウ」という男を特定できるのか。その重圧が、芽依の幼い肩に重くのしかかった。

 その夜、夕食も喉を通らないまま、三人は自室にこもった。リビングの明かりは、彼らの部屋まで届かず、廊下は薄暗い。普段なら元気いっぱいの琥右も、今はすっかり意気消沈している。ベッドの隅にうずくまり、膝を抱え、小さく震えている。碧央は、お気に入りのブロックで何かを組み立てているが、その手つきはいつもよりぎこちなかった。彼は、ブロックを積み上げながらも、その視線は虚空を見つめ、まるで美咲と対話しているかのようだった。芽依は、パソコンの前に座り、頭を抱えていた。団地の住民名簿には「サイトウ」という苗字は見当たらなかった。美咲の悲鳴と、彼女の遺体が貯水槽に投げ込まれるあの衝撃的な映像が、脳裏から離れない。

 「団地の住民じゃないとしたら…?」

 芽依は思考を巡らせる。美咲が最後に目撃されたのは、団地から少し離れたエボラ通り。そして、彼女は「白い作業服の男に付きまとわれている」と友人に相談していた。白い作業服…それは、特定の職業を連想させる。建設作業員、清掃員、あるいは引越業者など、様々だ。しかし、団地内で白い作業服を着た人間となると、業者は限られてくる。団地内の大規模な修繕工事に携わる業者。父の仕事の記憶が、芽依の頭に浮かんだ。

 「ねえ、父さんって、内装工事の仕事で、団地の中にもよく行くって言ってたよね?」

 芽依は、ふと父の言葉を思い出した。父は地元の内装職人として、団地内のリフォームや修繕の仕事も請け負っている。もしかしたら、父なら何か知っているかもしれない。しかし、父を危険に巻き込むわけにはいかない。殺人犯の情報を、直接父から聞き出すのは危険すぎる。芽依は躊躇した。もし、父が疑われたら?もし、父が斎藤という男に目をつけられたら?様々な不安が、芽依の心を支配した。

 その時、碧央が小さな声で言った。その声は、まるで遠くから聞こえてくるようだったが、はっきりと芽依の耳に届いた。
「父さん、団地の中に、仲良しの『サイトウさん』がいるって言ってたよ。工事現場で、いつも一緒に仕事してるって。…お兄さん、覚えてないの?」

 芽依と琥右は、ハッとした。その言葉は、まるで暗闇の中に差し込む一筋の光のようだった。父の仕事仲間。それならば、団地の住民名簿に名前がなくてもおかしくない。そして、団地を知り尽くしている人物だ。団地内の工事の場所、住民の出入り、人目の少ない場所。すべてを把握している人物だ。

 「父さんに、そのサイトウさんのこと、詳しく聞いてみよう!」芽依は、心に一筋の希望が湧いた。同時に、新たな恐怖が彼女の心に忍び寄った。父が信頼する人物が、もし、美咲を殺した犯人だったとしたら…。

 翌日の夕食時、食卓には、いつも通り母の作った温かい料理が並んでいた。しかし、三姉弟の食欲は、昨夜からほとんどなかった。父は、彼らの様子に気づいているようだったが、何も言わず、黙々と食事を摂っていた。芽依は意を決して、父に切り出した。

 「父さん、花見川団地の仕事で、サイトウさんっていう人とよく一緒になるって言ってたよね?」

 父は、ビールジョッキを置いて、少し驚いたように芽依を見た。彼の目が、好奇心と疑問を同時に含んでいた。「ああ、斎藤さんのことか?斎藤健一さん。よく知ってるな。お前、どうしてそんなこと知ってるんだ?学校の友達にでも聞いたのか?」父は、芽依の不自然な質問に、少し不審そうな目を向けた。

 「あのね、学校で、団地の歴史について調べてて…昔、団地で大きな工事があった時に、作業員の中に斉藤さんっていう人がいた、みたいな話を聞いてね。それで、父さんの話と繋がったから、気になっちゃって」芽依はとっさに嘘をついた。父に直接、幽霊のことや殺人事件のことを話すわけにはいかない。もし、父が疑われたり、危険に巻き込まれたりしたら、どうしよう。

 父は納得したように頷いた。「なるほど。そうか。斎藤さんは、もう20年以上、このあたりの団地の工事に携わってる大ベテランだからな。腕も確かだし、人柄も良いから、俺も信頼してるんだ。団地のことは俺より詳しいくらいだよ。俺たちが団地の仕事を引き受ける時なんか、いつも彼の工務店に声をかけるんだ。彼がいなきゃ、あの団地の内装工事なんてとてもじゃないができないくらいだ」

 父の言葉に、芽依の胸はざわついた。斎藤健一。その名前が、彼らの心をざわつかせた。

 「ただ…最近、少し様子がおかしいんだ。何か悩みでもあるのか、顔色が優れないし、口数も減った。たまに、ひどく疲れた顔で仕事場に来ることもあるんだ。まるで、何か重いものを背負っているかのようにな…」

 父の言葉に、芽依の胸はさらにざわついた。顔色が優れない。口数が減った。ひどく疲れた顔。それは、犯罪を犯した者が抱える、罪悪感やストレスの表れではないのか。夜眠れず、精神的に追い詰められているからではないのか。そして、父が信頼しているという事実が、芽依の心をより一層重くさせた。父は、知らず知らずのうちに、殺人犯と親交を深めていたのだ。

 その夜、芽依は眠れなかった。斎藤健一という名前が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。そして、あの白い作業服を着た男の姿と重なる。しかし、確証はない。もし、人違いだったら。父の信頼している相手を、いわれのない罪で疑ってしまうことになる。彼女の心は、激しい葛藤に揺れていた。

 しかし、碧央が決定的な証言をした。
寝室で、三人で電気を消して布団に潜り込んでいると、碧央が突然、小さな声で言った。その声は、まるで遠くから聞こえてくるようだったが、はっきりと芽依の耳に届いた。

「美咲お姉さん、言ってたよ。『ケンイチ』って…」

 碧央の言葉に、三姉弟は息を呑んだ。ケンイチ。斎藤健一。すべての点が、一本の線で繋がった瞬間だった。美咲は、彼らの前で、直接、犯人の名前を告げていたのだ。それは、もう疑いようのない事実だった。

 琥右は震える声で言った。「じゃあ、斎藤さんが…美咲さんを殺したってこと…?」彼の声は、恐怖と、信じられないという気持ちが入り混じっていた。

 芽依の心臓は、激しく鼓動した。信じたくない。父が信頼する人が、そんな恐ろしいことができるはずがない。しかし、碧央の言葉には、嘘偽りが一切なかった。彼の言葉は、常に真実を告げてきた。

 「私たちは、どうすればいいの…?」芽依は途方に暮れた。相手は大人。しかも、殺人犯だ。自分たち子供だけでは、どうすることもできない。警察に通報しても、きっとまともに取り合ってくれないだろう。美咲の幽霊が見えること、碧央が声を聞けること。そんなことを話しても、精神的に不安定だと判断されるだけだ。彼らの証言は、誰も信じてくれないだろう。

 翌日、三人は学校を終えると、再び団地へ向かった。しかし、今回は貯水槽には近づかない。彼らが向かったのは、斎藤健一が働く工務店だった。工務店は団地の外れにあり、団地全体の陰鬱な雰囲気とは裏腹に、そこだけが妙に生々しい活気を帯びていた。プレハブ小屋のような建物は、ペンキの匂いが強く、周囲には工具や資材が乱雑に散乱している。錆びた脚立が壁に立てかけられ、使い古された作業着が物干し竿にぶら下がっている。

 工務店の前で立ち止まり、中を覗き込むと、奥の休憩室で、数人の職人たちが休憩しているのが見えた。彼らの間からは、タバコの煙と、職人特有の粗野な笑い声が聞こえてくる。その中に、父の言っていた「斎藤健一」らしき男がいた。白い作業服を着て、無精髭を生やし、疲れた顔でタバコを吸っている。彼の視線は宙を彷徨い、何かを深く考えているようだった。彼の表情は暗く、職人仲間との会話にもほとんど加わっていない。その顔は、ニュースで見た被害者たちの顔と同じ、深い陰を宿しているように見えた。その瞬間、芽依は確信した。この男が、美咲を殺した犯人だと。彼女の心臓は、警鐘を鳴らすように激しく鼓動した。

 恐怖が、再び彼らを襲った。足がすくみ、逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、今回は逃げなかった。彼らは、ここで引き下がれば、美咲の魂は永遠に救われないことを知っていた。そして、団地の呪いも、終わることはないだろう。彼らの小さな肩に、美咲の、そして団地の住民たちの運命が託されているかのようだった。

 「どうするの…?」琥右が震える声で芽依に尋ねた。彼の目は、恐怖で潤んでいる。
芽依は、大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに吸い込んだ空気は、団地の埃と、そして微かな血の匂いを帯びているかのようだった。そして、小さく、しかし決意に満ちた声で答えた。

 「私たちは、彼を監視する。そして、決定的な証拠を見つけるのよ。私たちが美咲さんの代わりに、彼の罪を暴くの」

 三姉弟の、危険な潜入捜査が、ここから始まった。彼らの無邪気な日常は、完全に消え去り、今や彼らは、殺人犯を追う探偵となっていた。花見川団地の闇は、想像以上に深く、そして危険なものだった。彼らの前には、想像を絶する困難が待ち受けているだろう。しかし、彼らはもう、引き返すことはできない。美咲の魂を救うために、そして団地の呪いを解くために、彼らは戦うことを決めたのだ。

第七章 探偵の介入

 斎藤健一。その名前が、三姉弟の脳裏に焼き付いていた。父の同僚であり、信頼する男。しかし、彼こそが美咲を殺し、団地に呪いをもたらした張本人であるという確信が、彼らの心を支配していた。工務店で見た斎藤の疲れた顔、その目の奥に潜む暗い影。それは、彼らが幻視した殺人者の姿と寸分違わなかった。恐怖は依然として彼らを蝕んでいたが、美咲を救うという使命感、そして団地の呪いを解くという強い決意が、彼らを突き動かしていた。

 しかし、どうすればいいのか。子供の自分たちでは、殺人犯を追い詰めることなどできるはずがない。警察に訴えても、幽霊が見える、声が聞こえるなどという証言を信じてもらえるわけがない。途方に暮れた芽依は、夜遅くまでパソコンの前で情報を集め続けた。団地内の事件に関するニュース記事、近隣の未解決事件、そして、子供たちが見る夢や幻覚に関する心理学的な論文まで、あらゆる情報を貪るように読み漁った。

 その中で、ふと、ある記事が芽依の目に留まった。それは、数年前に近隣の市で発生した、少年による未解決事件の記事だった。記事の片隅に、その事件を解決に導いたという、一人の私立探偵の名前が書かれていた。「探偵:黒沢剛」。彼の事務所は、千葉市中央区にあり、主に浮気調査や人探しを生業としているようだった。しかし、記事には、「子供の持つ特殊な能力を信じ、それを事件解決に活かした」と記されていた。芽依の心臓が、大きく跳ねた。これだ。この人なら、自分たちの話を信じてくれるかもしれない。

 翌日、芽依は学校から帰ると、琥右と碧央を連れて父の書斎へと向かった。父の留守を狙って、彼は昔、個人的な探偵を雇っていたことがあった。もしかしたら、その時の名刺や連絡先が残っているかもしれない。書斎の引き出しを片っ端から漁ると、古びた名刺入れが目に留まった。その中には、複数の名刺が収められていたが、その中に、あの「黒沢剛」の名刺が確かにあった。そこには、彼の電話番号と、千葉市中央区にある彼の事務所の住所が記されていた。名刺の裏には、父の走り書きで「信頼できる」と書かれている。

 「やった!」芽依は思わず声を出した。琥右と碧央も、芽依の顔を見て、安堵の息を漏らした。それは、暗闇の中に差し込む一筋の光だった。

 しかし、すぐに不安が芽生えた。探偵に依頼するとなれば、当然費用がかかる。それに、両親に隠れて探偵に会うこと自体が、大きな問題だ。芽依は、財布の中を確認した。お年玉や、貯めていたお小遣いを合わせても、到底足りる金額ではない。途方に暮れていると、碧央が名刺を指差した。「お姉さん、この人、きっと美咲お姉さんのこと、助けてくれるよ。僕、この人の声が聞こえる…何か、優しい音がする」碧央の言葉に、芽依は迷いを振り切った。

 翌日の土曜日、三姉弟は両親に「公園へ行ってくる」と告げ、電車で千葉市中央区へと向かった。自宅のある横戸町から、京成本線八千代台駅まで歩き、そこから京成千葉駅へ。そして、モノレールに乗り換えて市役所前駅で降りる。都会の喧騒と、人々の慌ただしい足音が、彼らを包み込む。花見川団地の薄暗い空気とは対照的に、街は活気に満ち溢れていた。しかし、彼らの心臓は、これから起こる出来事を予感するかのように、激しく鼓動していた。

 探偵事務所は、駅前の雑居ビルの3階にあった。古びたエレベーターを昇ると、薄暗い廊下の突き当たりに、「黒沢探偵事務所」と書かれた木製の看板が目に飛び込んできた。看板は少し色褪せていて、年季が入っているのがわかる。扉は、擦りガラスで中が見えないようになっている。扉の前まで来ると、琥右は怖がって芽依の背中に隠れた。「本当にここなの…?」彼の声は、ひどく震えていた。碧央は、じっと扉を見つめている。彼の顔色は青白いが、その瞳には、強い光が宿っていた。

 芽依は深呼吸をして、意を決して扉を叩いた。コンコン、という音が、静まり返った廊下に響き渡る。

 「はい、どうぞ」
 
中から聞こえてきたのは、落ち着いた、それでいてどこか優しい男性の声だった。芽依は、琥右と碧央の手を強く握り、扉を開けた。

 事務所の中は、想像していたよりもずっと質素だった。古びた木製の机と椅子がいくつか置かれ、壁には地図や事件の資料が貼られている。部屋の隅には、使い古されたソファと、小さなテーブルが置かれている。窓からは、午後の陽光が差し込んでいるが、部屋全体はどこか薄暗い。埃っぽい空気の中に、古紙とコーヒーの匂いが混じっていた。

 机の向こうに座っていたのは、黒沢剛だった。彼は40代半ばだろうか。背は高く、がっしりとした体格をしている。無精髭を生やし、少し疲れた顔をしているが、その目は鋭く、そしてどこか温かさを感じさせた。彼は、彼らの姿を見ると、少し驚いたような顔をした。まさか子供たちが依頼人として訪れるとは、思っていなかったのだろう。

 「やあ、いらっしゃい。君たち、どうしたんだい?迷子にでもなったのかい?」

 黒沢は、優しい声で語りかけた。彼の声は、碧央が言っていた通り、どこか安心感を与えるような響きがあった。芽依は、緊張で喉がカラカラだったが、意を決して話し始めた。

 「あの…私たち、探偵さんに、お願いしたいことがあるんです」

 芽依は、花見川団地で起こっている不可解な事件のこと、貯水槽で美咲の幽霊に出会ったこと、碧央が幽霊の声を聞けること、そして斎藤健一という男が犯人である可能性について、できる限り冷静に、そして具体的に説明した。琥右は、恐怖で言葉を失い、芽依の背中に隠れたままだったが、碧央は黒沢の顔をじっと見つめ、芽依の言葉に合わせて頷いた。

 黒沢は、彼らの話を一切遮ることなく、真剣な表情で耳を傾けていた。彼の目は、芽依の言葉の奥に潜む真実を探るかのように、鋭く光っていた。時折、顎に手をやり、深く考え込むような仕草を見せた。彼が、子供たちの荒唐無稽な話を一笑に付すことはない。その真剣な眼差しは、芽依に確かな希望を与えた。

 「なるほど…」黒沢は、全ての聞き終えると、深く息を吐いた。「君たちの話、信じよう。いや、信じざるを得ないな。君たちの目には、嘘がない。そして何より…」

 黒沢は、机の引き出しから、一枚の古い新聞記事を取り出した。それは、芽依が図書館で見た、あの少年による未解決事件の記事だった。記事には、詳細な事件の経緯と、犯人を特定するに至った経緯が記されている。その中で、驚くべきことに、その事件もまた、子供の証言、具体的には「声が聞こえる」という少年からの情報が、解決の鍵になったと書かれていたのだ。

 「私もね、以前、君たちの碧央くんと同じような能力を持つ少年と出会ったことがあるんだ。彼は、被害者の声を聞き、事件の真相を教えてくれた。そのおかげで、未解決だった事件を解決に導くことができた」

 黒沢の言葉に、三姉弟は目を見開いた。自分たちと同じように、目に見えない存在と対話できる人間がいた。そして、それを信じ、事件を解決に導いた探偵が、目の前にいる。それは、彼らが抱えていた孤独感を打ち破るような、大きな安堵だった。

 「だから、君たちの話、信じる。斎藤健一という男が、美咲さんの事件に関わっている可能性が高い。そして、団地で起こっている不可解な事件も、それが原因だ。美咲さんの魂が、自分を殺した男を、そして事件の真相を、君たちに伝えようとしているんだ」

 黒沢の言葉は、まるで霧が晴れるように、彼らの心を軽くした。彼らの恐怖が、少しずつ、しかし確実に、希望へと変わっていく。

 「私に協力してくれるかい?もちろん、報酬のことは心配しなくていい。この手の事件は、私の専門分野でもある。それに、子供たちを危険な目に遭わせるわけにはいかないからね。私が責任を持って、この事件を解決する」

 黒沢の力強い言葉に、芽依は涙が溢れそうになった。琥右も、芽依の背中から顔を出し、黒沢をじっと見つめている。碧央は、満足そうに微笑んだ。

 「はい!お願いします!」芽依は、深々と頭を下げた。

 こうして、三姉弟は、黒沢探偵を巻き込み、花見川団地の闇に潜む真実を暴くための、新たな一歩を踏み出した。彼らは、決して一人ではない。熟練した探偵の力が加わることで、美咲の無念を晴らし、団地の呪いを解くことができるかもしれない。しかし、相手は殺人犯。そして、目に見えない悪霊の存在。彼らの前には、想像を絶する困難が待ち受けているだろう。しかし、彼らはもう、引き返すことはできない。美咲の魂を救うために、そして団地の呪いを解くために、彼らは戦うことを決めたのだ。花見川団地の、深淵な闇が、ゆっくりと彼らを飲み込もうとしていた。

第八章 魂の解放、そして新たな始まり

 黒沢探偵の介入は、三姉弟に大きな希望をもたらした。彼らの荒唐無稽な話を真剣に受け止め、信じてくれる大人がいる。それは、彼らが抱えていた孤独感を打ち破り、暗闇の中に一筋の光を灯したかのようだった。しかし、安心感と同時に、彼らは新たな重圧も感じていた。斎藤健一という男が、本当に美咲を殺した犯人なのか。そして、もしそうなら、どうやってその罪を暴き、美咲の魂を解放できるのか。

 黒沢は、斎藤の身辺調査を始めた。彼の行動パターン、交友関係、そして過去の経歴。あらゆる情報が綿密に調べ上げられた。三姉弟は、学校から帰ると、黒沢の事務所に通い、彼から得られた情報を共有し合った。

 「斎藤健一…彼は、20年ほど前に花見川団地で大規模な修繕工事が行われた際、その現場の責任者を務めていたようだ。その後も、団地の定期的な修繕や、住民からの個別の依頼を請け負うことが多かったらしい。つまり、団地の構造を隅々まで知り尽くしている人物だ」

 黒沢の言葉に、芽依はぞっとした。団地を知り尽くしている。それは、美咲の遺体を隠蔽するのに、これ以上ない知識となる。琥右は、斎藤の顔写真を食い入るように見つめ、その表情に恐怖を滲ませた。碧央だけは、どこか遠くを見つめている。彼の小さな耳には、美咲の「声」が、まだ響いているかのようだった。

 数日後、黒沢は彼らに、斎藤の意外な一面を語った。

 「斎藤には、病気の妻がいた。何年か前に、難病を患ってしまい、高額な医療費がかかっていたようだ。彼は、その費用を捻出するために、無理をして仕事を請け負っていたらしい。しかし、妻は結局、昨年の冬に亡くなったそうだ…」

 その話を聞いて、芽依は複雑な感情を抱いた。同情すべき境遇だ。しかし、それが美咲を殺した理由になるはずがない。

 「斎藤さんが、美咲さんに何をしていたのか、美咲お姉さんが教えてくれたよ…」碧央が、突然、小さな声で言った。彼の顔色は、いつにも増して青白い。しかし、その瞳には、強い決意が宿っていた。

 碧央の言葉が、再び幻視を呼び起こした。それは、断片的で、鮮明ではないが、美咲が体験した苦痛が、彼らの心を直接突き刺すように伝わってきた。

 その日、美咲は塾の帰り道、いつものようにエボラ通りを通っていた。夜遅く、人通りはまばらで、古い街灯が寂しく道を照らしている。風が吹き荒れ、枯れた落ち葉がカサカサと音を立てて舞う。突然、美咲の背後から、白い作業服を着た男が近づいてきた。それは、以前から美咲を付きまとっていた斎藤だった。美咲は怖くなり、走り出した。しかし、男は美咲よりも速く、彼女の腕を掴んだ。

 「お前、俺のこと、誰かに話しただろう!」

 斎藤の声が、美咲の耳に響いた。それは、怒りに満ちた、そしてどこか焦りを含んだ声だった。美咲は、過去に斎藤が団地内の工事で起こした不正行為を偶然知ってしまい、それを友人に相談していたのだ。斎藤は、それが外部に漏れることを恐れ、美咲を口封じしようとしていたのだ。

 美咲は必死に抵抗した。叫び声を上げ、もがき苦しんだ。しかし、男の力は強く、美咲は抵抗することもできず、近くの廃墟へと引きずり込まれた。廃墟の中は、埃とカビの匂いが充満している。暗闇の中で、美咲の悲鳴が響き渡る。その悲鳴は、やがてくぐもった音になり、そして、聞こえなくなった。

 斎藤は、美咲の遺体を、人目につかない団地の奥深くにある貯水槽へと運んだ。重いコンクリートの蓋を開け、美咲の体を投げ入れた。そして、重い蓋を閉め、その上からさらに土を被せ、何事もなかったかのように立ち去った。その冷酷な行動が、美咲の魂を貯水槽に縛り付け、団地に呪いをもたらしたのだ。

 映像は、瞬く間に消え去った。三姉弟は、その場に立ち尽くし、ただただ震えていた。美咲の悲しみと、斎藤の冷酷さが、彼らの心に深く突き刺さった。

 「斎藤さん、許せない…!」琥右が、拳を握りしめ、悔しそうに涙を流した。彼の無邪気な心は、この残酷な真実に耐え切れなかった。
芽依は、唇を噛み締め、涙をこらえた。憎しみと、どうしようもない無力感が彼女の心を支配した。

 黒沢は、静かに彼らを見つめていた。彼の表情は、深い悲しみと、しかし、確かな決意に満ちていた。
「これが、美咲さんが伝えたかった真実だ。斎藤健一は、口封じのために美咲さんを殺し、貯水槽に遺棄した。そして、その怨念が、団地に怪奇現象をもたらしている」

 黒沢は、捜査を進めた。斎藤の妻の医療費の件、そして、斎藤が不正を働いていたという証拠を見つけたのだ。それは、団地の大規模修繕工事における、資材の横領や、工事のずさんな手抜き工事の記録だった。それらの証拠は、美咲が偶然知ってしまった「秘密」と合致した。彼は、それらを警察に提出した。

 警察は、黒沢の持ってきた証拠と、子供たちの証言を総合的に判断し、斎藤健一に事情聴取を行った。最初は否認していた斎藤も、黒沢が提示した証拠と、美咲の幻視を語る碧央の言葉に、次第に追い詰められていった。

 「美咲さんは、全部知っていたんだ…!」

 斎藤は、ついに観念した。彼は、妻の医療費に困り、団地内の工事で不正を働いていたことを認めた。美咲がそれを知ってしまい、友人に話そうとしていることを知り、口封じのために殺害したこと。そして、遺体を貯水槽に遺棄したこと。全てを自白した。彼の顔は、罪悪感と後悔に歪んでいた。

 斎藤の逮捕は、団地中に大きな衝撃を与えた。彼の真実を知った住民たちは、怒りと悲しみに包まれた。しかし、同時に、あの不穏な空気が、少しずつ薄れていくのを感じていた。団地を覆っていた黒い靄が、ゆっくりと晴れていくかのようだった。

 数日後、黒沢は三姉弟を連れて、再び花見川団地の貯水槽へと向かった。この日、空は澄み渡り、陽光が貯水槽を明るく照らしていた。苔むしたコンクリートの壁も、昨日までとは違い、どこか清々しく見える。重苦しい雰囲気は、すっかり消え去っていた。

 貯水槽の前に立つと、碧央が静かに蓋に手を置いた。

 「美咲お姉さん、もう大丈夫だよ。斎藤さんは捕まったよ。もう、苦しまなくていいんだよ」

 碧央の言葉が、貯水槽の中に吸い込まれていく。すると、水面が静かに波立ち始めた。薄暗い水底から、白い光がゆっくりと上昇してきた。それは、まるで美しい真珠のような光だった。光は水面で揺らめき、やがて、美咲の姿を形作った。彼女は、以前のように苦痛に歪んだ顔ではなく、穏やかな表情をしていた。その目は、感謝と安堵に満ちている。

 美咲は、三姉弟にそっと微笑んだ。そして、口元がかすかに動いた。

 「ありがとう…」

 その声は、もう悲しみを含んでいない。むしろ、安堵と、そして未来への希望に満ちた声だった。美咲の姿は、ゆっくりと、しかし確実に、光となって消え去っていった。まるで、彼女の魂が、ようやく自由になったかのように。

 琥右は、美咲の光が消えていくのを見届け、涙を流した。しかし、それはもう恐怖の涙ではない。悲しみと、そして安堵の涙だった。芽依は、静かに美咲の姿が消えた場所を見つめていた。彼女の心には、美咲を救えたという達成感と、そして、命の尊さ、正義の重さという、かけがえのない教訓が刻まれていた。

 黒沢は、静かに彼らの背中を見守っていた。彼の表情には、満足感と、そして、子供たちの成長を見守るような温かい眼差しが宿っていた。

 斎藤健一は逮捕され、美咲の遺体は貯水槽から引き上げられた。団地では、美咲の慰霊碑が建てられ、住民たちは静かに彼女の冥福を祈った。事件後、団地の雰囲気は、劇的に変化した。住民たちは、互いに助け合い、絆を深めていった。子供たちの笑い声が再び公園に響き渡り、商店街にも活気が戻ってきた。まるで、団地を覆っていた呪いが解け、新たな生命が吹き込まれたかのようだった。

 三姉弟の日常も、元の平穏を取り戻した。夜はぐっすり眠れるようになり、悪夢を見ることもなくなった。しかし、彼らの心の中には、美咲を救ったという経験が、深く刻み込まれていた。彼らは、目に見えない世界の存在を知り、そして、困難に立ち向かう勇気を学んだのだ。

 数年後、芽依は大学で心理学を学び、いつか、人々の心の闇を解き放つカウンセラーになりたいと考えるようになった。琥右は、持ち前の正義感を活かし、警察官を目指すようになった。そして、碧央は、人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるという彼の特殊な能力を活かし、黒沢探偵の事務所で助手として働くようになっていた。彼は、困っている人々の「声」に耳を傾け、事件の真相を解き明かす、若き探偵として活躍するようになるだろう。

 花見川団地は、あの悲劇を乗り越え、再び活気に満ちた場所となった。しかし、貯水槽の傍らに立つ美咲の慰霊碑は、彼らに、そして団地の住民たちに、あの日の出来事を静かに語り継いでいるだろう。それは、人間の心の闇と、そして、それを乗り越える希望の物語として。そして、三姉弟の物語は、まだ始まったばかりだ。彼らは、これからも、人々の心の闇に潜む真実を追い求め、光を灯し続けるだろう。彼らの視線の先には、まだ見ぬ新たな「声」が、彼らを待っているのかもしれない。