~ 弁天橋に消えた少女のさけび ~

千葉県千葉市花見川区横戸町。ごく普通の住宅街に、その家はひっそりと建っていた。築30年を過ぎた二階建ての一軒家は、どこにでもあるありふれた風景に溶け込んでいる。この家は、数年前に両親が中古で購入したものだった。新築に比べて手頃な価格だったのが決め手になったというが、父は内装職人としての腕を活かし、家族で住み始める前に水回りや壁紙などを自分たちで改装し、新築同然の快適さを手に入れていた。

この家に住むのは、地元の内装職人として腕を磨く父と、大企業の経理を一手に担うしっかり者の母。そして、三人の子供たちだ。

長女の芽依は2010年生まれの15歳。中学三年生で、その名の通り、まるで小さな芽が可憐に咲き誇るように、しっかり者で優しい。感受性が豊かで、幼い弟たちの面倒をよく見る、頼りになる存在だ。特に、年が離れた碧央のことは、自分の子供のように可愛がっていた。

長男の琥右は2012年生まれの13歳。中学一年生で、少しおっちょこちょいな一面もあるが、運動神経は抜群。サッカー部に所属し、いつも汗を流してグラウンドを駆け回っている。明るく天真爛漫な性格で、家族のムードメーカー的な存在だ。

末っ子の次男、碧央は2017年生まれの8歳。小学三年生で、まだ幼いながらも、その洞察力は大人顔負けだ。おませな性格で、彼の小さな瞳は、常に周囲の異変や隠された真実を見逃さない鋭い観察力を持っている。彼は家族の中でも特に、言葉にならない空気の変化や、微細な異音に敏感だった。

平和で穏やかだった家族の日常は、まるで音もなく、しかし確実に、蝕まれ始めた。その発端は、何気ない碧央の一言からだった。

ある日の夕食時、食卓を囲む家族の間で、碧央がぽつりと呟いた。「ねぇ、お父さん。いつもお父さんの部屋のドア、開けっぱなしなの?」

父は箸を止めて顔を上げた。「ん?俺の部屋のドア?閉めてるぞ。お前、勝手に開けたりしてないだろうな?」父の書斎は、家族もめったに立ち入らない聖域のような場所だった。仕事の資料が山積みにされ、大切な道具も置かれている。

碧央は首を横に振った。「ううん。でもね、いつも開いてるんだよ。それで、誰かいるの」

母が心配そうに碧央の顔を覗き込む。「碧央、誰って?もしかして、疲れちゃったの?」

碧央は、茶碗の米を箸で弄りながら、視線を泳がせた。そして、小さな声で言った。「女の子。髪の毛が長くて、いつも座ってるの…ずっと、そこにいるんだよ」

一家は顔を見合わせた。父の書斎に、女の子。そんな馬鹿な話があるだろうか。父は新しく付けたばかりの、重厚な木のドアを閉めていることを毎晩確認している。ありえない。

「碧央、疲れてるんじゃないか?今日はもう寝なさい」と母が言うと、碧央は不満そうに口を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。しかし、その夜から、横戸町の家には、ひっそりと、しかし確実に、奇妙な出来事が頻発するようになる。

深夜、芽依は喉の渇きで目を覚ました。薄暗い廊下に出ると、どこからともなく、カタカタと木を叩くような微かな音が聞こえてくる。最初は風の音かと思ったが、それは一定のリズムで、まるで誰かが爪で壁を引っ掻いているかのように響いていた。音のする方を探すと、それは父の書斎から聞こえてくるようだった。恐る恐る父の部屋のドアに耳を近づけると、音はぴたりと止まった。代わりに聞こえてきたのは、微かな、しかしはっきりと聞こえる女のすすり泣く声。まるで、壁の向こう側から聞こえてくるような、湿り気を帯びた低い声だった。芽依は全身の毛が逆立つ感覚に襲われ、慌てて自分の部屋に引き返した。布団に潜り込み、震えながら朝を待った。

琥右は、夜中にトイレに起きると、廊下の突き当りにある洗面所の鏡に、誰かの影が映っているのを見た。それは、ぼんやりとした人影で、膝を抱えるように座っているように見えた。彼は目を凝らしたが、次の瞬間には影は消えていた。鏡をまじまじと見ても、そこに映るのは自分だけ。琥右は目をこすり、気のせいかと思ったが、その日以来、夜中にトイレに行くのが怖くなった。彼は、あの影が自分だけに見えたのか、それとも本当にそこにいたのか、分からずにいた。

父と母も、子供たちの異変に気づき始めていた。特に、父は毎晩、書斎のドアがわずかに開いていることに気づいていた。自分が確かに閉めたはずなのに、翌朝には決まって数センチ開いている。そして、そこから漂ってくる、わずかに湿った土のような匂い。それは、父がこれまで嗅いだことのない、不気味で陰湿な匂いだった。書斎に置かれた資料は、朝になると散乱していることが増え、父は自分の記憶が曖昧になったのかと首を傾げた。しかし、その度に背筋に冷たいものが走るのを感じていた。

一家を包む不穏な空気の中、芽依は学校の友人たちから、ある噂を聞きつけた。それは、自宅近くの花見川にかかる赤い橋、弁天橋に関するものだった。

「ねえ、芽依、知ってる?あの弁天橋ってさ、昔、すっごい怖い殺人事件があったんだって」友人のさくらが、ヒソヒソ声で言った。

芽依はゾッとした。「殺人事件?どんな?」

「『弁天橋殺人事件』って言ってね。女子学生がさ、腱と首を切られて殺されちゃったんだって。犯人は見つかってないらしいけど、それ以来、夜中に橋の近くを通ると、足を引きずる女の霊を見たっていう人がいるんだよ。髪が長くて、白い服を着てるんだって」

芽依は、碧央が話していた「髪の毛が長い女の子」という言葉を瞬時に思い出した。まさか、そんな偶然が…彼女の心臓はドクンドクンと音を立てた。

その週末、三姉弟は自転車を連ねて、お気に入りのパンケーキ屋さん「cafe a tempo」へ行くことになった。国道16号線沿いにあるその店は、休日の家族のお気に入りスポットだった。焼きたてのパンケーキの甘い香りに包まれ、少しだけ気分が和らいだ。

ふかふかのパンケーキを頬張りながら、芽依は意を決して、弁天橋の噂を二人に話した。

「あの弁天橋って、昔、殺人事件があったらしいよ。足を引きずる女の子の幽霊が出るって噂…」

琥右は「へぇー、怖ぇー」と興味津々に身を乗り出したが、碧央はパンケーキを食べる手を止め、じっと芽依の顔を見つめた。彼の小さな目が、何かを探るように光っていた。

「足を引きずる女の子…」碧央は呟いた。「家にもいるよ」

芽依と琥右は、ぎょっとした。琥右は思わずフォークを落としそうになった。

「え、碧央、どういうこと?」芽依が焦って尋ねる。

碧央はフォークでパンケーキを突きながら、ぼんやりと天井を見上げて言った。「お父さんの部屋にいる女の子。いつも座ってるんだけど、たまに足を引きずって歩く音がするの。それとね…足の指がないんだよ」

芽依と琥右は、全身の血が凍るような感覚に襲われた。足の指がない。そんな具体的な描写は、碧央がただの作り話をしているとは思えなかった。それは、あまりにも生々しく、そして、恐ろしい真実を突きつけられたようだった。

家に帰ると、芽依はいてもたってもいられなくなり、母に、弁天橋の事件について尋ねた。母は顔色を変え、しばらく黙り込んだ後、重い口を開いた。

「…ええ、昔、その事件は本当にあったわ。私がまだ小さかった頃だから、詳しいことは覚えてないけど…ただ、本当に痛ましい事件だったと聞いているわ。被害者の子は、まだ若かったと…」

母の言葉は、芽依の不安をさらに募らせた。ただの噂話ではなかった。現実に起きた悲劇が、自分たちのすぐそばにあったのだ。そして、その悲劇が、今、自分たちの家で起こっている異変と、何らかの形で繋がっているのではないかという、恐ろしい予感が芽生え始めた。

その夜から、家の異変はさらに顕著になった。まるで、弁天橋の噂を耳にしたことで、その「何か」がより活発になったかのように。

夜中、誰もいないはずのリビングから、カチャカチャと食器の音が聞こえてきたり、階段を誰かがゆっくりと、しかし明らかに体重をかけたような足取りで上り下りする音がしたり。その足音は、時折、ずる、ずると何かを引きずるような音を伴っていた。

ある日の夕方、琥右が部活動のサッカーの練習から帰宅すると、玄関のドアがわずかに開いていた。鍵はかかっていたはずだ。彼は不審に思いながらも家に入ったが、家の中はしんと静まり返っていた。二階の自分の部屋へ向かうと、部屋の電気は消え、窓は開け放たれていた。風もないのに、カーテンが大きく揺れている。そして、ベッドの上に、見慣れないものが置かれていることに気づいた。それは、古びた、埃をかぶった人形だった。手足は不自然に曲がり、まるで乱暴に扱われたかのように歪んでいる。片方の目は白く濁り、どこか虚ろな表情をしていた。琥右は鳥肌が立ち、反射的に部屋を飛び出した。彼はその人形を触ることすらできなかった。

碧央は、父の書斎にいる女の子の姿が、以前よりもさらに鮮明に見えるようになっていた。彼女はいつも、部屋の隅で膝を抱え、長い髪で顔を隠している。しかし、時折、彼女がゆっくりと顔を上げる瞬間があった。その顔は、白く、生気がなく、そして、恐ろしいほどに悲しげな目をしていた。碧央は、その目が、何かを訴えかけているように感じた。彼女は、まるで助けを求めているかのように、碧央を見つめる。

芽依は、悪夢を見るようになった。繰り返し見る夢。それは、暗闇の中を、足を引きずる女が歩いている夢だった。女の足元からは、じわりと血が滴り落ちている。その足は、まるで骨が折れているかのように不自然な角度で曲がり、指がないのがはっきりと見て取れた。そして、女がゆっくりと振り返ると、その顔は、無表情で、目の奥には深い憎しみが宿っていた。芽依は、夢の中で「助けて…」という、か細い、しかし切実な声を聞いたような気がした。目覚めると、全身が汗でびっしょりになっていた。

父は、書斎の異変に疲れ果てていた。毎朝、書斎のドアを開けると、部屋の中がひどく散らかっている。本が床に散乱し、椅子が倒れていることもあった。そして、あの湿った土の匂い。その匂いは、まるで土中に埋められていたものが、じっとりと湿気を帯びて蘇ったかのような、不気味さをまとっていた。父は、最初は気のせいかと思っていたが、あまりにも頻繁に起こるため、家族には内緒で、こっそりと書斎に防犯カメラを設置した。もしかしたら、泥棒でも入っているのかもしれない。しかし、心のどこかで、もっと別の、不気味なものを期待している自分がいた。

翌朝、父は震える手で防犯カメラの映像を確認した。映っていたのは、信じられない光景だった。

深夜、書斎のドアがゆっくりと、しかし確実に開き、白い影が部屋の中に入ってくる。その影は、まるで実体がないかのように部屋の中を漂うように動き回り、本を棚から落とし、椅子を倒す。その動きは、まるで苛立ちを表現しているかのようだった。そして、その影が、カメラに向かって、ゆっくりと顔を向けた。それは、長い髪に隠された、白く、生気のない顔だった。そこに目はなく、ただ、真っ黒な穴が、こちらをじっと見つめていた。父は、恐怖で声を出すことも、息をすることすらもできなかった。ただ、その映像を凝視するしかなかった。

一家は、この怪奇現象が、もはやただの気のせいでも、子供たちの見間違いでもないことを悟り始めていた。特に、父が震える手で防犯カメラの映像を見せた時、三姉弟は確信した。これは、本物の「何か」なのだと。そして、その「何か」は、自分たちに何かを訴えかけているに違いないと。

芽依は、弁天橋の事件と、自宅の異変が、間違いなく繋がっていると確信した。彼女はインターネットで「弁天橋殺人事件」について、手当たり次第に調べ始めた。事件は1990年代初頭に発生し、被害者は女子学生。遺体は弁天橋の近くで発見された。犯人は未だ捕まっていない。そして、被害者の名前は、**佐々木由紀(ささき ゆき)**ということを知った。彼女は、事件当時、高校生だったという。

琥右は、あの人形が気になっていた。どこから来たのか。なぜ、自分の部屋に置かれていたのか。彼は、恐る恐る人形を手に取り、まじまざと観察した。埃を払い、よく見ると、人形の首元に、微かな、しかしはっきりと読める文字が彫られていることに気づいた。「由紀」。

由紀。それは、弁天橋の事件の被害者の名前だった。人形は、彼女の遺品なのか、それとも、彼女自身を象ったものなのか。琥右の背筋に、再び冷たいものが走った。

碧央は、例の女の子が、以前よりもはっきりと見えるようになっていた。彼女は、もはや父の書斎に留まらず、家の中を自由に移動しているようだった。ある日の午後、碧央がリビングで一人遊びをしていると、その女の子が彼の目の前に、まるで実体があるかのように現れた。彼女は、ゆっくりと碧央に近づき、その口元が、わずかに、しかし確かに動いた。

「…見つけて…」

碧央は、震える声で言った。「何を?」

「…指輪…」

女の子の姿は、言い終えると、まるで煙のようにすっと消え去った。しかし、その言葉は碧央の耳に、鮮明に残っていた。

三姉弟は、それぞれの情報を持ち寄った。

「弁天橋の被害者の名前、佐々木由紀っていうんだよ。高校生だったって」芽依が、タブレットの画面を見せながら言った。

「この人形の首に『由紀』って彫ってあるんだ。もしかして、由紀さんの人形なのかな…」琥右は、少し青ざめた顔で、人形を差し出した。

「あの女の子、指輪を探してるって言ってた…」碧央が、蚊の鳴くような声で告げた。

三姉弟は、由紀が、何らかの形で自分たちの家と関わりがあるのではないかと確信した。彼女は、自分たちの家で起こっている怪奇現象の原因であり、同時に、自分を殺した犯人の手掛かりを、自分たちに教えてほしいと願っているのではないか。彼女の霊は、苦しみながらも、真実を求めていた。

指輪。

それが、由紀の霊が残した唯一の手がかりだった。三姉弟は、由紀が何らかの形で自分たちの家と関わりがあるのではないかと考えるようになった。なぜ、指輪なのか。なぜ、自分たちの家なのか。

芽依は、由紀の事件当時の新聞記事をさらに読み漁った。事件の詳細、被害者の生活状況、警察の捜査状況。しかし、指輪に関する記述はどこにも見当たらない。

琥右は、由紀の人形がどこで手に入ったのか、思い当たる場所がないか、家の中をくまなく探した。しかし、どこにも見覚えのある箱や包みはない。まるで、最初からそこに存在していたかのように、突然現れたようだった。

碧央は、由紀の霊が次にどこに現れるか、注意深く家の中を観察していた。彼の小さな体は、恐怖で震えながらも、その瞳は真実を捉えようとしていた。

そして、ある日。

碧央が風呂場で湯船に浸かり、おもちゃで遊んでいると、浴槽の排水口付近から、微かな光が見えた。それは、水に反射してきらめくような、小さな光だった。彼は好奇心に駆られて、恐る恐る排水口の蓋を開けてみた。すると、その奥に、古びた小さな木箱が隠されているのを見つけた。木箱は水に濡れて変色し、まるで長い間そこに放置されていたかのように見えた。木箱を開けると、中には、くすんだ銀色の指輪が一つ入っていた。指輪は変色していたが、精巧な細工が施されており、小さなイニシャルが刻まれているのが見えた。「K.Y.」

碧央は、興奮して指輪を手に取り、風呂場を飛び出した。

「見て!見て!指輪だよ!由紀ちゃんが探してたの!」

芽依は指輪を受け取り、イニシャルを確認した。「K.Y.…これ、誰かのイニシャルじゃない?由紀さんの名字は佐々木だから、Yは由紀さんの下の名前かもしれないけど、Kは…誰だろう?」

琥右は、指輪をじっと見つめ、何かを思い出したように言った。「あれ?この指輪のデザイン、どこかで見たことあるような…」

その日の夜、父の書斎に、由紀の霊が再び現れた。今回は、以前よりもさらに鮮明な姿で、膝を抱えるように座っている。碧央は、震えながらも、由紀に指輪を差し出した。

由紀の霊は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、以前のような悲しみではなく、わずかに光を宿しているように見えた。まるで、ようやく自分を理解してくれる者が現れたかのように。

由紀の霊は、碧央の手から指輪を受け取ろうと、ゆっくりと手を伸ばした。その手は、透き通るように白く、しかし、確かに存在していた。そして、彼女の霊が指輪に触れた瞬間、指輪が、鈍い光を放った。

その瞬間、由紀の霊の口元が、再び動いた。

「…あの男…」

由紀の霊は、ゆっくりと指を一本、二本と折り曲げ、何かを数えるようにした。そして、最後に親指を立てた。その仕草は、何かを強く訴えかけているかのようだった。

その瞬間、由紀の霊は、まるで蝋燭の炎が消えるように、すっと消え去った。しかし、彼女の残したメッセージは、はっきりと彼らの心に響いていた。

由紀の霊が指を数えた仕草。それは、何かの数字を表しているだけでなく、もっと別の意味があるのではないか。

三姉弟は、由紀の霊が残したメッセージの意味を必死に考えた。

芽依は、由紀の事件当時の新聞記事をさらに詳しく調べた。由紀の交友関係、アルバイト先、行動範囲。彼女の人間関係の中に、K.Y.というイニシャルの人物がいないか。

琥右は、指輪のデザインについて、友人に尋ねたり、インターネットで調べたりした。この特徴的なデザインの指輪が、どこで売られていたのか。

碧央は、由紀の霊が次に現れる時に、何か別のヒントをくれるのではないかと、注意深く周囲を観察し続けた。彼は、霊の存在に慣れてきたかのように、冷静にその出現を待っていた。

そして、琥右が、ある重要な手掛かりを発見した。

「この指輪…もしかしたら…これって、昔、京成大和田駅の近くにあったアクセサリーショップで売ってたデザインじゃないかな?」

琥右は、以前、母親がそんな話をしていたのを思い出したのだ。母が若い頃に流行った指輪で、自分も欲しかったけれど買えなかった、と。

「あの店、もう潰れちゃったって言ってたけど…」

三姉弟は、すぐに自転車に飛び乗り、京成大和田駅の周辺を調べ始めた。今はもうないアクセサリーショップの跡地を訪れたり、昔の商店街の地図を探したり。聞き込みを重ねるうちに、ある年老いた女性に出会った。彼女は、かつてそのアクセサリーショップの向かいで雑貨店を営んでいたという。

芽依は、女性に由紀の指輪を見せた。

女性は指輪を手に取り、懐かしそうに目を細めた。「ああ、この指輪ねぇ。懐かしいわ。よく売れたわよ、これ。特に、男の子が女の子にプレゼントするのに人気だったわね」

芽依は、指輪のイニシャル「K.Y.」について尋ねた。

「K.Y.ねぇ…そういえば、昔、この指輪を何個も買っていく男性がいたわ。確か、名前は…ああ、そうそう、岸田さんって言ったかしらねぇ。岸田さんはね、指輪を一つ買うたびに、イニシャルを彫ってもらってたのよ。色々な女性にプレゼントしてたんでしょうねぇ」

女性は、さらに続けた。「あの人、確か、この近くに住んでたはずよ。鉄道連隊橋梁跡の近くに、大きなアパートがあったでしょう?そこに住んでたはずだわ」

岸田。

そして、鉄道連隊橋梁跡。

三姉弟は、興奮を隠せない。由紀の霊が示唆した「指を一本、二本と折り曲げ、最後に親指を立てた」仕草。それは、何かの数を表しているだけでなく、「キ・シ・ダ」という言葉の音、つまり「岸田」という人名を表しているのではないか?

芽依は、すぐにスマートフォンを取り出し、インターネットで「岸田」という名字と「鉄道連隊橋梁跡」をキーワードに検索をかけた。

すると、ある情報がヒットした。

それは、鉄道連隊橋梁跡の近くに住む、岸田という男性の自宅の住所だった。彼の名前は岸田雄介。そして、その男性は、事件当時、花見川区に住んでおり、由紀と同じ京成大和田駅を利用していたことが判明した。さらに、彼は当時、由紀がアルバイトをしていた飲食店の常連客であったことも分かった。由紀の日記には、しつこくつきまとう客の記述があったはずだ。それが、岸田雄介だったのだ。

しかし、まだ決定的な証拠が足りない。由紀の霊が、自分たちの家で何かを隠しているのではないか。

三姉弟は、由紀の霊が、再び姿を現すのを待った。

そして、その夜、由紀の霊は、リビングに現れた。

今回は、以前よりもさらに鮮明で、その表情は、どこか安堵しているようにも見えた。彼女の白い服は、以前よりも少し透き通るような白さで、その足元は、もう血を滴らせてはいなかった。

碧央は、震えながらも、由紀に語りかけた。「由紀ちゃん、犯人は誰なの?教えて!」

由紀の霊は、ゆっくりと、しかしはっきりと、指を指した。

その指が指し示していたのは、リビングの壁に飾られた、家族写真だった。父、母、芽依、琥右、碧央が笑顔で写っている、温かい写真。

由紀の霊の指は、家族写真の奥、壁の隅を指していた。そして、その場所には、小さな亀裂が入っていることに、三姉弟は初めて気づいた。それは、これまで壁の一部だと思い込んでいた、ごく自然な、しかし不自然な亀裂だった。

芽依は、恐る恐る亀裂に触れた。すると、壁の表面がわずかに剥がれ落ち、その奥に、小さな空間があることが分かった。まるで、最初からそこに隠されていたかのように、巧妙に作られた空間だった。

琥右は、その空間を覗き込んだ。そして、そこにあったものに、息をのんだ。

それは、古びた日記帳だった。表紙は色あせ、埃をかぶっていたが、確かにそこにある。

日記帳を開くと、そこには、由紀の文字で、日々の出来事が、几帳面に綴られていた。彼女の喜び、悩み、そして、恐ろしい日々。

そして、事件発生の数日前のページに、恐ろしい記述があった。

「最近、岸田さんというお客さんがしつこくて困る。お店の外でも待ち伏せされて、気持ち悪い。この前は、プレゼントだと指輪を渡されたけど、怖くて受け取らなかった。でも、どこからか私の家の鍵を手にいれて、勝手に家に入ってくるんじゃないかと不安…」

由紀の不安と恐怖が、行間に滲み出ていた。そして、その次のページに、事件発生の日の記述があった。

「彼が家に入ってきた。もう、逃げられない。どうして、私なの…」

日記の最後には、震える文字で「弁天橋…」とだけ書かれていた。そして、それから数行開けて、かすれた文字で「ここに…」と書かれ、その下には、小さな絵が描かれていた。それは、この横戸町の家を思わせる、見慣れた間取り図だった。

全てが繋がった。

岸田雄介という男が、ストーカー行為を行い、由紀を殺害した。そして、彼女の遺体を弁天橋の近くに遺棄した。由紀は、殺される直前、自らの日記を隠し、犯人の手がかりを残そうとしたのだ。彼女の怨念と、真実を求める心が、かつて由紀が実際に住んでいたこの家に宿り、彼らに助けを求めていたのだ。

父と母は、三姉弟が見つけた指輪と日記を見て、言葉を失った。そして、すぐに警察に通報した。父は震える声で、今までの経緯と、日記の内容を伝えた。

警察は、日記の内容と、指輪のイニシャル、そして、岸田雄介の住所を照合し、すぐに捜査を開始した。
その日の夜、岸田雄介は逮捕された。彼の自宅からは、由紀の持ち物の一部と、事件の凶器と思われるものが発見された。彼は、逮捕された後も沈黙を続けていたが、証拠を突きつけられると、ついに由紀の殺害を認めた。彼は、由紀への執着と、拒絶されたことへの逆恨みから犯行に及んだと供述した。

由紀の霊は、それ以来、二度と彼らの家の前に姿を現すことはなかった。家を覆っていた重苦しい空気は消え去り、横戸町の家には、再び穏やかな日常が戻った。あの冷たい視線も、引きずる足音も、今はもうない。

しかし、三姉弟の心には、由紀の霊との出会いが、深く刻み込まれていた。あの、悲しげな目。そして、彼らに助けを求めるように語りかけてきた声。彼らは、決してその体験を忘れることはないだろう。

夏休み、三姉弟は、再び「cafe a tempo」でパンケーキを食べていた。窓から差し込む陽光が、彼らの顔を明るく照らしている。

「私たち、由紀ちゃんを助けることができてよかったね」芽依がしみじみと言った。彼女の表情には、以前の怯えはもうない。

琥右は、パンケーキを一口食べ、「うん。でもさ、世の中にはまだ捕まってない犯人とか、解決してない事件とか、たくさんあるんだろうな」彼の瞳は、どこか遠くを見つめていた。

碧央は、いつものようにおませな表情で、二人の言葉を聞いていた。そして、フォークをゆっくりと置き、二人の顔を見上げた。

「ねぇ、次は何を助けに行く?」

碧央の言葉に、芽依と琥右は顔を見合わせて笑った。彼らの夏は、まだ始まったばかりだ。そして、もしかしたら、彼らの「難事件解決」の物語も、まだ始まったばかりなのかもしれない。

花見川に沈む夕日は、彼らの未来を、静かに、そして力強く照らしていた。